日本文化いろは辞典には「年中行事とは、1年の間に行われる儀式・行事の事です。もとは宮中で行われるものを言いましたが、後に民間の行事・祭事も年中行事と言うようになりました。私たちは普段、地球が太陽のまわりを1周する期間(365日)を1年と決めて作成される「太陽暦」を使用しており、様々な行事・祭事がその1年間に執り行われています。」と書かれている
世界にはいろいろな国があるが、日本ほど明確な四季がある国というのは少ない。そこで古来から、この1年の移り変わりをただ自然にまかせるというのではなく、そこに神さまの姿をうつし、人為的に、平和的に、この移り変わりを促し、あるいは不幸な災害をも享受しながらも、お祭りや催事など様々な催しを行なってきた。これがいわゆる年中行事と云われるものだ。
年中行事というと、柳田国男を代表とする民俗学的方面から様々な研究がされてきた。それに国文学を加味したのが折口信夫。さらに有職故実からの研究、そして文献からの研究と様々な方面から研究されている。
当然、民間で行われてきたこと、宮中で行われてきたこと、武家で行われてきたこと、その中には根源を同じにするものもあれば、それぞれ独自のもの、地域性のあるもの様々ある。最近では、今盛んに宣伝している恵方巻きという、まったく起源や根拠の不明ながらも商戦にうまくのっかてしまったものまで年中行事化してしまった。
現代の茶道は、この年中行事の影響を多く受けている。節句に因んだ雛祭り茶会、七夕茶会、さらにはキリスト教圏の行事であるバレンタインやクリスマスの時期にも茶会が行われる。個人的にも、還暦茶会など生誕に因んだ茶会、学生ならば卒業茶会等々、さまざまな人生の通過儀礼を記念して茶会を開く。
日本人は四季の移り変わりを大切にし、それを年中行事とした。年中行事は四季感と置き換えることも出来るだろう。それを巧みに取り入れたのが茶の湯ともいえる。
しかし、茶の湯が最初から四季感を取り入れていたわけではなかった。初期の茶の湯は名物、いわゆる道具を所持すること、鑑賞することがまず第一の目的であった。名物を持っていないと一流の茶人と認められなかった時代であった。
一方、茶の湯の生まれた時代は、神仏が人々の生活を支配していた霊異な世界に人々は生きていた。一見俗物に見える名物願望も、その儀式は神仏の加護のもとで行われていたのだ。
茶の湯は囲炉裏を囲んで行う儀式である。元々、もてなす座敷に囲炉裏を切り茶の湯をしたことから、茶の湯の間、茶の間が生まれる。家の中心は囲炉裏であり火の神であった。神を囲んで一年の営みが繰り返された。
茶の家では今でも大晦日に炉中の火種を灰に埋めて埋み火にし、新年の茶のための下火とする。火を途絶えないこと、新年に伝えること、そして若水で茶を点てること、これは茶の湯に限らず、民間でも行わててきた年中行事だ。火を絶やさないということは洋の東西を問わず、宗教的な意味会いが大きい。
「東の囲炉裏(炉) 西の竈」とい諺があるそうだ。寒冷地の東日本には炉、温暖な西日本は竈が主流であった。初期の茶の湯は商人たちが中心となり進取の気性に富んだ西の文化だと思われがちだが、その性格はきわめて東の文化、土地に根付いた土着的なもと云っていいだろう。茶という文化は元来農耕的であるとも言えるのだ。自然を畏怖しながら神の前で茶が営まれてきたのだ。
中世も終わり、江戸時代に入ると神仏の概念が形式化してくる。人を超えた存在であった宗教が幕府によって秩序の中に取り込まれてしまった。それは宗教だけでなく人々の生活も同じである。身分制度のもと、武士は家名を、商家は暖簾を、農家は田畑を守ること、つまり家を守り子孫に残すことが第一の目的となった。伝統芸能の世界でも家元制度が確立されていったのもこの時代だ。一年のサイクルが毎年無事繰り返されることが願いとなり、それが幸せとなったのだ。
このような時代背景の中、守る、伝えるという思想が茶の湯に反映され、同時に四季感が茶の湯に取り入れられるようになったのも時代の要請であった。
現代では家の概念も薄れ個が優先されるようになった。家の概念の喪失は、当然建物にもあらわれ。生活の中心である家の間取りも、個が優先されもてなす空間もなくなりつつある。それは家から火、つまり火の神さまがいなくなったことと無関係ではないだろう。
祭りもイベント化し、個の楽しみとなりそこにさえも神の姿を見ることが出来なくなってきた。年中行事も商戦に乗らない限りは次第に廃れつつある。
茶道もまた個の思想が中心となり、四季感もマニュアル化され茶会に取り入れらることが多くなってきた。
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