村田珠光は大徳寺一休和尚に参禅、茶禅一味の境地を悟り侘び茶を創始した。武野紹鴎は三条西実隆より藤原定家の「詠歌大概の序」の講義を聞いて茶道の極意を悟った。紹鷗は禅と和歌の悟りの境地は同じだと気付いたのだ。
禅の場合は茶禅一味といったが、和歌の場合は茶歌一味とはいわない。それは茶の湯の始まりから、連歌師が大きく関わってきており最初から和歌の影響を受けて発展してきたからに他ならないことは、連歌の項でも述べさせていただいた。
「詠歌大概の序」は次のように書かれている。
情以新為先(こころはあたらしきをもってさきとなし)
求人未詠之心詠之(ひといまだえいぜざるのこころをもとめこれをえいず)
常観念古歌之景気(つねにこかのけいきをかんねんし)
可染心(こころをそむべし)
時代の移り変わりは常のごとくであるので、その次代の変化をいち早く掴むこと、常に情報を張り巡らせていなくてはならない。また、毎年、同じ花をみていてもそれを見る人の心は同じではない。人が詠うことが出来なかった歌の心を探って、新しい心で和歌を詠うべきある。
お茶で云うと創意工夫や作為の心である
また、先人たちの古歌の心を汲み取りながら、別の趣で詠わなければならない。これが本歌取りという和歌の技法で、新古今和歌集から多くの歌に取り入れるようになった。
古歌の心を探るということが、すなわち稽古ということだ。稽古は中国の書経に出てくる言葉だ。古代の書物を読んでそこから聖人の教えなどを学ぶことを云った。
この稽古の重要性は藤原為家も「詠歌一体」で述べている。
和歌をよむ事かならず才學によらず、ただ心よりおこれる事と申したれど、稽古なくては上手のおぼえ採りがたし
和歌をよむことは決して学問から得た知識ではない。ただ心の中から起こることだと先達は申したけれど、稽古、つまり昔の書物から習うことなくしては、名人の評価を得ることは難しい
和歌は特別な詩的才能に恵まれなくても、稽古によって和歌を詠むことが可能になる。むしろ稽古を重ねて伝統と自己との調和を整えていく。これがお茶の稽古に繋がっている。
最初に茶席に掛けられた和歌は諸説ある。近衛家煕の言動を綴った「槐記」にも歌掛物の始めが書かれてある。
「八重葎茂れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり」(恵慶法師)
「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山のいでし月かも(阿倍仲麻呂)
昔は墨跡ばかりかけていたが、ある時利休がある茶人に招待された時に、手水鉢のふきんは掃除されていたけれども露地は草ぼうぼうであった。そこで利休は、その茶人が所持している定家の色紙の歌「八重葎」の歌の心を知って合点したというもの。これが歌掛物の最初としている。
続けて、利休が秀吉を招待した時に、定家の色紙「天の原」を掛けておいたところ、秀吉はそれまでは茶の湯の掛物は墨跡のみをかけていたのに、歌掛物なので不審に思い利休に尋ねたところ、利休はこの歌の雄大さ、奥ゆかしさは大徳寺の開山である大燈国師や、虚堂禅師の心に匹敵するので用いたと云う説も述べている。
ちなみに「天の原」の和歌は、今井宗久の茶の湯日記を見ると 1555年10月2日の条に武野紹鴎が今井宗久、山上宗二の二人を招いての茶会に使っている。
茶の湯の心を語るのに古人は和歌を引用した。
村田珠光
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(不(藤原定家)
武野紹鴎
村雨の露もまだひぬ槇の葉に 霧立のぼる秋の夕暮れ(寂連法師)
千利休
花をのみ待つらむひとに山里の 雪間の草の春を見せばや(藤原家隆)
あるいは茶道の心得を歌に託した。「利休百首」「茶道百首歌」と伝えられるものである。
この和歌の世界を本格的に取り入れたのが、小堀遠州である。その最も特筆すべき功績は、茶入を時代別、窯別に分類するのに和歌の手法にならったことにある。
遠州以前の多くは、茶入の銘は、その形状、所在、由来 景色によって銘々された。大名物など単純なものが多い。江戸時代になって、茶入の種類も多くなり、茶碗と同様細かく分類されるようになった。遠州は和歌の本歌取りの手法を用いて分類した。
遠州は時代別、窯別、形状別に茶入を集め、その中で一番優れている茶入を本歌とした。例えば、金華山窯の茶入に古今和歌集の春道列樹の「昨日といい今日とくらして飛鳥川 流れてはやき月日なりけり」という歌を添えて“飛鳥川”という銘をつけた。これを“飛鳥川手本歌”という。また、同一種類の茶入に 後撰和歌集の「いはねども我が限りなき心をば 雲井に遠き人もしらなむ」という読人しらずの古歌を書つけ、「雲井」と銘々した。これを「飛鳥川手 銘 雲井」茶入という。このように本歌と◎◎手のような茶入の分類は、小堀遠州によって始められたのだ。
和歌の力は絶大だ。言霊を通して神と交わり、人と交わる。公家や武家が歌を詠むのは遊んでいるわけではない。国や人を動かす原動力であった。中世以降、連歌師が活躍し諸国を回り歓迎されたのも、情報収集というだけでなく神が生きていた中世だからこそ、彼らの見えない力にすがったのだろう。戦乱が中世的秩序を崩壊させ、新たな時代近世の価値観を生み出す。そんな境界の時代に、連歌師たちによって茶の湯が次第に洗練されてゆき、利休につながる。
しかし、利休の茶は異質だ。言霊が見えないのだ。和歌の力は絶対的であったにも関わらず、利休の活躍した6年間だけはこの言霊の力、宗教的タガがはずれた特殊な茶の湯であったのだ。
織部も利休は歌が下手だったと述べているように、利休詠と伝えられている歌は少ない。その上、織部の言を裏付けるように上手いとは言えない。中世最後の芸術家でありながら、もっとも中世的なるものが見えないのだ。
利休は下手だったから歌を詠まなかったのか、それとも意図的に言霊を遠ざけたのか。いずれにしても、足りなかった言霊を補ってあまりある力強い精神力が利休の茶を不朽のものにした。
利休の茶の湯を検証していくと、その精神の原動力はタブーへの挑戦だったことがわかる。タブーとは宗教的タブーのことだ。言霊を遠ざけるかわりに、極めて土俗的な習俗を取り入れ、ケをハレに、ケガレをカミ(聖)へと逆転させる力である。
虚構と現実をつなぐ和歌世界は茶の湯を創造力豊な世界へと導いた。しかし、利休の茶は創造力を否定した、、、。
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