茶席には様々な音に溢れている。茶席の中でそれを心地良いと感じるのは、日本人ならではの感覚といわれている。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
日本人ならば誰もが知っている松尾芭蕉の俳句は日本人と西洋人と音を考える上で昔からよく引き合いに出される歌だ。西洋人は音を右脳(音楽脳)で聴き、日本人はか左脳(言語脳)で聴く。その結果、虫の鳴き声もただの雑音であったり、逆に心地良く感じたりするのだ。右脳で聴く私たちは虫の鳴き声にいろいろな感情を抱く。だから音ではなく声と表現するのだ。
私が遠州流に弟子入りして一番悩まされたのは音であった。茶道のイロハもわからないうちから茶事の手伝いをさせられる。最初に茶事のことを教わったのは、植木屋さんからだった。庭の手入れから掃除の仕方、水播きなどの外回り、簾の上げ下げまで実戦で鍛えられた。
簾をうまく巻き上げることが出来れば、一人前だ。遠州流の場合、柄杓で湯返しをする中水の音を合図に茶室の窓に掛かっている簾を順番に巻き上げていく。簡単なようで難しい。外に人の気配を感じさせず、音もさせずに同じペースで巻き上げる。
水屋に控える者にとって、茶室内の音は重要だ。会話はもちろん、戸を閉める音、蓋を置く音、袴の擦れる音、釜の煮え音、茶杓を打つ音、湯返しの音等々。音によって、茶室の中の進行を把握するからだ。ところが、聞こえるべき音が聞こえない、逆に聞こえてはいけない音がすると、水屋は忙しくなる。不測の事態を想定しながら、あらゆる場面に対処できるように諸準備を整えていかなければならないからだ。事が起こってから対処しては遅いのだ。
集中して一つの音を聞いてみてほしい。時計の音、エアコンの音、何でもいい。生活の中に様々な音が満ちていることに気がつくはずだ。音に対していかに鈍感になっているのかがわかる時でもある。
茶室の中では不用意な音は禁物だ。時には建水から蓋置を取り出す時「カーン」と云う音色が響き渡る。建水に蓋置を当てた音だ。道具に音をさせると云うことは、形あるモノだけにヒビが入ったり、破損する原因となる。道具に対しては細心の注意を払って点前をすることが肝要である。
近衛家煕の言行を集めた『槐記』に「茶湯に、三つの音と云うことあり。大切な器と云ひ、清閑の席なれば、随分物静に音せぬようにするは勿論なり。唯釜の蓋を引切(蓋置)に置く音と,.茶碗を畳に置く音と、茶杓にて茶碗の縁を叩く音と、是れ三音なりと仰らる」とある。許される音もあるのだ。
さらに「茶筅打をすることは、前後に差別あり。初めは湯すすぎの茶筅は、湯にて穂を柔らげる為なれば、如何にも柔らかに打反し、茶筅すすぎも、静に音もせぬ程にすべし。後の水すすぎは、茶筅に茶の付きたるを濯ぎ清くする為なれば、如何にも慥かに音をして茶碗の四方共に能く洗ひ、穂をしごくやうにして、茶を落とすべし」とある。
遠州流では、茶を点てる前に、必ず茶筅通しをする。穂を柔らかにするための実用的な面もあれば、精神的な意味合いも含まれている。清める、すすぐ等の作法を見ていると形だけでの人がいる。実用面が軽視される場合が多いのも事実だ。目的がはっきりすれば、自ずと点前も変わってくる。
『槐記』には柄杓の扱いにおいて秘伝につながる記述も多い。「口の広き水指と、口の狭き水指とは、柄杓の遣ひよう異なり。口の広き水指は。柄杓を水指の前の方にすりて、静に汲めば、水動かず、水を見る故なり。口の狭き小さき水指は、真中へ柄杓を打込みて、音をして、水を汲む事なり」とある。
口が広い水指の蓋を開けると、お客さまから水面が見えるため、たとえ柄杓で水を汲んだ時でも。波立たせず平静を保つのがよい。意識して前の方に”する”つもりで汲むと静に汲むことが出来る。金魚すくいの極意のごとくか・・・;。
逆に口が狭いと、柄杓の合を斜めに入れることが難しいため、合を上に向けたまま底から沈ませるように柄杓を入れる。
フロイス「日本史」には興味惹かれる記述がある。「私たちがごく上等な敷物が敷いてある、実にきれいな毛氈の上に座ると、私たちに食事がはこばれ始めました。日本はたいそう物ができない国であるので、その食べ物は賞美しませんが、給仕と、秩序と、清潔さと、器とは絶賛に価します。そうして、私は日本で行われる以上の清潔と整然さとをもって宴会を催すことはできないということを、間違いなく確かなことだと思います。なぜかというと、食事をしている人々は大勢なのに、給仕をしている者たちからは、ただの一言葉も聞こえずに、驚くほど秩序整然と万事はこんでいくからです」
水屋(裏方)で静かに物事を進めることはなかなか難しい。修行時代、つい声を出してしまったり、音をさせて叱られたものだ。茶会にしても、料亭、レストランにしても給仕する側の心構えと自覚が足りないことが多い。
禅の世界に「空心に点ず」という言葉がある。腹が空いた時にちょっとしたものを食べてしのぐことを云う。点心の由来である。禅宗は生活全てに細かい規則がある。清浄なる衆僧の規則と云う意味で「清規(しんぎ)」と云う。食もまた修行であり、作法も細かく決められている。
1)食べ物は口許へ運ぶ
2)食器を取る時は音を立てない。
3)咳払い、鼻水をすすったりしない。
4)頭をかかない。
5)食べるとき、汁をすするとき、音を立てない。
6)指で歯をほじらない。
7)ご飯を中央に寄せて固まりにして、大口を開けて食べない。
8)ご飯やおかずをこぼさない。
9)自分だけ早く食べ終わらない。
10)ご飯に汁をかけて食べたり、ご飯の上におかずをのせない。
等々。
この清規は茶の作法にも影響を与えたと云われる。
静けさの中にも音がある。亭主は作曲家のごとく音を使い分け茶会を演出する。茶の湯は音を感じ取り、ご馳走としなければ楽しむことも出来ないのだ。
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