和歌が茶の湯に取り入れられるようになったのは武野紹鴎以降のことと伝えれる。紹鷗は連歌の宗匠としても有名であり、三条西実隆に和歌を学び、茶道 を藤田宗里、十四屋宗悟、北向道陳等から修めていたが、実隆より藤原定家の 「詠歌大概の序」の講義を聞いて、茶道の極意を悟ったと云われる。
茶の湯はその始まりから連歌師たちが大きく関わってきた。連歌は身分を問わす誰もが参加出来る中世を通じて行われてきた芸能である。まず「発句」といって五七五を詠む、そして次ぎに「脇句」といって七七で受け、それから五七五の「第三句」になり、これを繰り返して行われる。時には数時間、十数時間かかる場合もある。ただ闇雲に詠むのではなく、宗匠と執筆が中心となってルールにのっとて進められる。これを式目と云った。
連歌の宗匠たちは歌の技芸だけで生活していたわけではなかった。彼らは諸国を自由に往来できることから、公家や幕府の上級武士、地方の大名や有力国人とも親交を持ち、情報収集、情報提供を行い、マスメディア的パフォーマンスもすれば、政治的なCIA的活躍をする。それに対する報奨も含まれていた。しかし、たんなる情報屋ではなかった。武田と今川の間に入って講話を結ばせるなど、その外交手腕もすぐれていたのだ。
このように連歌師たちは当時の情報ビジネスの最先端を走り、その情報提供料を自分の創作活動にあてていたのだ。都に茶の湯の流行の兆しがあれば、彼らは自ら茶の湯を身につけ実践した。それは、室町幕府の弱体化を背景に将軍家の御物が市井に流れ庶民にも名物を手に入れることが出来るようになったことにある。名物の行方は後に政治さえも左右する。彼らは積極的に茶の湯に取り組んだ。それは初期の茶の湯のリーダーと伝えられる人たちはほとんどが連歌師たちであったことでもわかる。連歌師たちが茶の湯の流行を作ったのだ。その連歌の形式は後の茶の湯にも大きな影響を与えた。
小堀遠州筆の連歌会の記録が残っている。参加者は小堀遠州、松花堂昭乗、淀屋个庵、佐川田昌俊、橘屋宗玄だ。大名、僧侶、家老、町衆とその身分もまちまちだ。
落葉して風乃色ミる山路哉 (遠州)
ひらけはさむき霜の松の戸 (松花堂)
有明は時雨し雲にもれ出て (淀屋个庵)
泊わかるる浪乃うら舟 (佐川田昌俊)
遠さかる春の海辺の天津雁 (橘屋宗玄)
永日暮るすゑ乃真砂地 (遠州)
帰るさの道は霞に隔りて (松花堂)
いつくの里にはこふ柴人 (淀屋个庵)
まず連歌会の主賓である遠州がまず最初句を詠んだ。
落葉して風乃色ミる山路哉(宗甫)=発句 冬
連歌のルールでは発句はその場に近い風物から入り、「や」「かな」「けり」などの切れ字で結ぶ。遠州の発句は初冬の山路の景色を詠んだ。赤い紅葉だったかもしれない。黄色い葉かも、茶色にクスンだ色かもしれない。そこに風が吹き落葉の景色を変える。そしてそれを「山路かな」と結んだ。
ひらけはさむき霜の松の戸(松花堂)=脇句 冬
発句に添えて詠むのが脇句と云う。座を用意する亭主の役割だ。当然、諸芸に通じていた松花堂が担当である。脇句は当季、体言止めをルールとする。そこで体言止めに松の戸と詠んだ。松で出来た粗末な戸だ。この一言で山奥の、粗末な一軒家が想像出来る。そして“同季”でなければならないルールに則り、松の戸に霜が降りて白くなっている景色をイメージした。山奥の粗末な一軒家に冬の訪れを象徴する冬の客、霜を詠んだのだ。
落葉して風乃色ミる山路哉 ひらけはさむき霜の松の戸
有明は時雨し雲にもれ出て(淀屋个庵)=第三句 晩秋
三句は転回をしなければならない。それがルールだ。前句には付けるが、そのもうひとつ前の句からは離れる。このもうひとつ前の句からの離れが「打越」と云う。どうするか。淀屋个庵は前句を受けつつ、「有明は時雨し雲にもれ出て」とやった。
冬の訪れを告げる発句と脇句の意向を、ふたたび有明の月、夜が明けかけても、空に残っている月、晩秋に戻したのである。これを「季移り」という。さらに目線を地面から空へと向けさせた。
有明は時雨し雲にもれ出て ひらけはさむき霜の松の戸
泊わかるる浪乃うら舟(佐川田昌俊)=第四句 雑歌
ここで一巡である。たった三句の付合であるが、その技芸たるやものはすごい。次の第四句は「軽み」と「あしらい」を要求される。これもルールである。では、どのようにあしらうか。あしらうのにもかなりの技能がいる。この句だけ見ると「泊わかるる浪乃うら舟」季節ははっきりしない。異った季の句の間には無季(雑)の句を挟むのが普通。つまり次の人のための前ぶりをしているのである。また、佐川田昌俊は、前句を受けての、僅かに漏れる月の光の先に映っている「泊わかるる浪乃うら舟」を表現することにより、場所も山から海へその景色を移し、これから出航するであろう船着場に漂う浦船に光を当てた。
有明は時雨し雲にもれ出て 泊わかるる浪乃うら舟
遠さかる春の海辺の天津雁(橘屋宗玄)=第五句 春
句目はそろそろ加速していくところになっていく。まず、季節が一気に春へと移る。そこでまず「出航しようとしていた浦船と春になって渡っていこうとする雁を掛けて海辺から遠ざかる。雁は秋に来て春に渡っていく二つの季節を表している。秋から一気に春にとんでいるのも、雁を表現することでその間の冬の季節を想像させる。
遠さかる春の海辺の天津雁 泊わかるる浪乃うら舟
永日暮るすゑ乃真砂地(遠州宗甫)=第六句 春
永き日、日中が長く感じられる春の日ながを読んでる。海辺から離れた真砂地に座って、だんだん暮れてゆく中、前の句を受けて、夕暮れの空に消える雁の姿を見ながら、物思いに思いふけっているのだろう。この句で初めて人が出てくる。
遠さかる春の海辺の天津雁 永日暮るすゑ乃真砂地
帰るさの道は霞に隔りて(松花堂)=第七句 春
ところがこのまま一緒に遠ざかってしまってはダメなのだ。そこで話が終わってしまう。自分の元に引き戻さないといけない。霞がかかって帰り道がわからない。ちょっと意地悪な句でもあるが、実はこの句は八句目に生きてくる。
帰るさの道は霞に隔りて 永日暮るすゑ乃真砂地
いつくの里にはこふ柴人(淀屋个庵)=第八句
そして霞の向こうには、「いつくの里にはこふ柴人」柴と云うのは山野にはえる小さい雑木、柴人というのは山里に住む芝を狩る人のこと。最後に見事に山里に戻して結んでみせた。
帰るさの道は霞に隔りて いつくの里にはこふ柴人
このような連歌の自由自在の発想は、茶の湯の精神にも影響を与え、この連歌会の形式が茶の湯へとつながっていった。一座を共にする者たちがルールに則り座を作っていく。その本質は連歌も茶の湯も同じなのだ。
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