茶の湯三代宗匠と称される千利休も古田織部も小堀遠州も天下一として世に認められるのは人生の晩年。利休64才、織部67才、遠州58才の時。まだ50を過ぎたばかりの私が茶の湯を大上段に語るには早過ぎるということはわかってはいるものの、今の私の茶の湯への思いを残しておくのも弟子をとっている者の使命と考え、取り敢えず1年限定でこっそりとブログを再開する。
さて、ご縁があって今年からお寺で茶道を教え始めた。日本の茶道の起こりから仏教と茶道は深い繋がりがある。これは鎌倉時代栄西禅師が抹茶を持ち帰ったという伝承と、室町時代、奈良・称名寺の村田珠光が大徳寺の一休禅師に参禅し侘び茶(草庵の茶の湯)を創成したという逸話によるところが大きい。爾来、茶禅一味の言葉があらわすように、茶は禅から起こったものであり、茶と禅は同一であると思われている。
そう、思われているのだ。先だって同級生から史学科の落ちこぼれの私に対して、「どんな言い伝えでも、史実か後世の人による創作か考え込んでしまうのが史学科の悪い癖。それを誰彼構わずに喋くるのは、もっと悪い癖」と揶揄されてしまったが、それにもめげず書き連ねていきたい。
実は茶と禅が強く結びついたのは江戸時代になってからである。
昔から禅宗と茶の湯が同一ならば様々な矛盾が生じてくる。その一つがキリシタン茶人の存在である。16世紀来日した宣教師たちはキリスト教布教のため宿敵仏教界と対峙しなければならなかった。そして彼らを悪魔の化身のごとく罵倒する。もし、当時茶と禅が同一ならば、いや百歩譲って同一と言わないまでも禅宗の影響を受けていたのならば、まさに茶の湯も宣教師たちの攻撃の対象であったはずだ。しかし、現実は違った。
宣教師たちは日本人の中に溶け込むために、茶の湯の重要性を認め、とくにヴァリニャーノはその手引きまで与えている。キリスト教布教の一つの指針が、日本の文化、古来からの思想を尊重し、同化をはかることにあった。その一つが茶の湯の利用であり、キリストの教えを広める一助としたようだ。
つまり、私たちが思っているほど当時の茶の湯は禅宗の影響を受けていないことになる。茶の湯は諸宗教の境界に存在していたのだ。
(続く)
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