近衛家熙のお抱えの医者であった山科道安が、享保9年から同20年までの間、家熙の言行を記述した「槐記」には次のように述べられている。
「総じて表具の取り合わせと云うことは、第一に一軸の筆者を吟味して、この人はどれほどの服を着るべき人ぞと工夫して、その人に相応の切を遣うこと、これ第一のことなり。今の人、沢庵、江月、利休、宗旦などに、古金襴を遣うことは何事ぞや。不相応は勿論、いと文盲なることなり。古き表具に、左様なるは一軸もなし」
天皇が書かれた、公家が書いた、南宋の高僧が書いたのに比べると、沢庵、江月、利休、宗旦なんかに格の高い古金襴の裂を使って表装するとは何事ぞと怒っているのだ。身分や格によって必然的に掛物に使われる裂も異なってくる。掛物はたんなる道具ではなく、人そのものだからだ。
服は特別なもので、人も身分によって、服装の規定があった。服装を見るだけでその人の身分がわからなければならなかった。現代でも制服があるから、あの人は警察官だ、消防士だとわかる。制服がなくても襟元につけているバッジによって、赤紫色のモールに金色の菊花模様があるから、あの人は国会議員だというように、着ているもの、身につけているものによって、その人の身分を区別している。それは、日本の国が出来てから現代でも脈々と続いているのだ。
それでは、裂の歴史、織りと染めの歴史を振り返ってみよう。
『日本書紀』には、応神十四年の項に、弓月君という人が百済から来朝して、秦の国民、1万人規模の人びとを連れて帰化したい、と申し出たことが記されている。その後。渡来した弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだといい逸話も伝わっている。
同じ頃、百済や中国の呉、漢から縫衣工女(ぬいひめ)らが次々に来日する。錦、綾などの高級織物や刺繍などの仕事にたずさわっていた。彼らは自らは布の衣褌(きぬはかま)を着て、絹などは着ることは許されず、絹は天皇に納められたといわれている。
さらに、8世紀に大宝律令が制定されるなど律令制が国の根幹に据えられると、民衆に到るまで服装は政府から規制、統制されるようになる。
織物をはじめとする裂は、律令の時代には現代の貨幣と同様に扱われたため、現代の造幣局と同じように大蔵省で錦(にしき)・綾などが織られた。また、染め物をつかさどった役所、織部司(おりべのつかさ)も設けられた。宮廷の修繕や食事、掃除、医療などの庶務一切を務め、天皇の財産を管理した宮内省には天皇・皇后に供御する糸・布・織物類の染色をつかさどった内染司(うちそめもののつかさ)が、天皇の補佐や、詔勅の宣下や叙位など、朝廷に関する職務の全般を担っていた中務省(なかつかさしょう)には宮中用衣服製造の監督をしていた縫殿寮(ぬいどのりょう)などが置かれた。
まさに、織物、裂は天皇と一番近いところにあり、特別なものであったことがわかる。
このように裂の歴史を辿ると、掛物における表装は特別な意味合いを持っていることがわかる。さらに茶室の中を見渡すと、裂を使用した道具が他にあることに気づく。道具ではないが、畳の縁も裂を使っている。昔は畳に座ること自体、身分のある人しか許されなかったが、縁によって身分が決められていた。一番馴染みがあるのが繧繝縁、お内裏様とお雛様が座っている畳だ。この縁は天子さまが座る特別なものだ。京都に残っている唯一の公家屋敷である冷泉家には当主が座る、客人を招く部屋は高麗縁という丸門が入っている畳、使用人や付き人の控える部屋は無地の縁と、身分によってわけている。
『松屋日記』には
「備前肩衝に名を布袋と利休のつけたるは、袋白地の小紋の金欄に大たるを、扨々(さてさて)過分過ぎたる袋とて布袋肩衝とつけし也」
とある。利休は侘びた備前の茶入に、あえて華やかな金襴の袋を取り合わせた。金襴を身につけるには備前には過ぎた袋ということで布袋となづけたという逸話も残っている。
ではいつ頃、茶入に袋が添えられたのか?茶入は中国からの舶来品である。そもそも何に使っていたのかよくわかっていない。恐らく薬器のたぐいだっただろうと想像されてるに過ぎない。南方録を読むと、茶入に袋が添えられるようになったのは足利義教、義政の頃だと書かれている。
現代人は壷を単なる保存ための容器と考えている。しかし古代以来、瓶・甕・壷は本来呪術に使われてきたものだ。壷には霊、魂をこめる働きがあると信じられてきた。古くは死者を葬った甕棺・今日でも骨壷など、壷は死と密接な関係がある。
一方、壷は食物を蓄えるなど他の用途にも使われる。その場合そのまま使うことは出来ないので、底に小さな穴をあけたり、白布で巻いたりと全く別の物に転化させる術が施されたと云われる。
茶壷の場合は口に覆われた錦だ。壷のままでは、聖なる茶室に持ち込むことは出来ない。そこで錦を被せることにより、死の器から聖なる器へと転化させた。茶入も同じだ。茶入は小壷とも云われる。裸のままでは使えない。茶入もまた仕覆の中に納めることにより、点前で使うことを可能にしたのだ。
現代では裂は鑑賞の対象となっている。小堀遠州の文龍帳(もんりょうちょう)をはじめとする裂の端切れを集めて一冊の帳にしたものも伝来している。松平不昧が1789年から編纂した「古今名物類聚(ここんめいぶつるいしゅう)」の名物切の部が成立して、独立して賞翫されるようになったと思われる。
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