2014年8月19日火曜日

茶の湯で哲学する〜江戸〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「江戸」。

 江戸と言うと、様々な意味が含まれている。
 まずは時代としての江戸。徳川家康が1603年江戸に幕府を開き、徳川慶喜が大政奉還をする1867年までの武家の時代を指す。。江戸時代はおよそ260年。この時代は軍事政権でありながら世界史的にみても平和が長く続いた時代でもあった。

 また、場所としての江戸を指す場合もある。江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる武家の町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した庶民の町(下町)に大別される。今日でもその面影を残している地域を多い。

 さらにアイデンティティ(自分が自分である証)としての江戸もある。「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」。「江戸っ子」と称される独自の住民意識が生まれてくるのは、200年近く経った江戸時代後半のことである。当初は家康が連れてきた人たちが造りあげた街だ。江戸っ子も野暮という田舎者や地方から出てきた人に対する言葉でもある。江戸は将軍様のお膝元、全国から人々が流入してくる。江戸の街は自分たちの先祖が造ったという、新規住民に対するアイデンティの一つでもあるのだ。

 このように江戸一つをとっても人によってはイメージすることが異なるが、現代の文化はこの江戸時代の文化を継承していることが多い。茶の湯も江戸時代に完成した文化の一つともいえる。

 中野三敏先生の「江戸文化再考」では江戸文化を雅と俗にわけて考えた。「雅」というのは”みやび”とも、”が”ともいう。武家文化と捉えることが出来る。そして「俗」、これは低俗という意味ではない。庶民の文化、町衆文化のことをさす。それを茶の湯にあてはめて考えていきたい。

 江戸時代の茶の湯を興隆期、成熟期、衰退期の三段階に分けて考えてみる。文化が成熟している状態とは、幹がしっかりしていて枝葉が広く多く分かれている。様々な選択肢があるのが文化の成熟度を測るものだ。選択肢が一つでは文化が成熟しているとは言えないのだ。

 17世紀は幕藩体制が確立し、朱子学の思想に影響を受けた茶の湯は洗練され完成されてゆく。現在の茶禅一味の思想もこの時期に生まれたものだと、先の哲学するでも述べた通りだ。天下の名物は尽く武家の手元に集められた。将軍家の茶の湯として古田織部、小堀遠州、片桐石州等が茶道指南役として茶の湯をリードする。現代の茶の湯が原型が確立した時代である。

 一方町衆、千宗旦や三人の息子たち(三千家の祖)、千家流の弟子たちはある者は各藩に仕官、ある者は多数の弟子や書物を通して利休の教えを広めようとした。これが流儀の確立の道となる。茶の湯文化の興隆期であった。

 江戸中期は茶の湯にとっても成熟期だ。遠州、石州によって確立された武家の茶法は式正とされ受け継がれた。特に石州の茶風は各派に分かれ大名家の茶として各藩に伝播する。寛政の改革の松平定信、姫路の風流大名酒井宗雅、そして出雲の松平不昧はこれまでの伝来の茶道具を分類するなど茶道への功績は計り知れない。遠州流でも幕府の中枢まで登りつめた小堀宗香、その子宗友は「喫茶式」「数寄記録」を編纂、遠州伝来の茶法をまとめあげた。まさに武家の 茶道文化は成熟期を迎えたのだ。

 一方庶民も都市部を中心に茶の湯を学ぶ人が増えてくる。茶の湯の大衆化が始まった。大衆に支持されるには分り易く遊びの要素が取り入れられ「遊芸」とも称された。免許皆伝であった茶の湯も江戸時代の身分制度の元、一子相伝の世界へとなった。次第に家元制度が確立していき権威化してゆく。作法もこまかく規定され、表千家如心斎天然宗左、裏千家一灯宗室、官休庵一翁宗守やを川上不白などの高弟が中心となり七事式が誕生した。大勢が一度に稽古が出来るよう工夫されたゲーム形式の稽古法である。庶民の茶の湯もまた成熟期を迎えていた。

 芸術の分野でも尾形光琳、宗達、その後の酒井抱一など江戸の美を代表する芸術家を生み出す。茶の湯の歴史では江戸前期よりも影が薄いが、この時代に生きていたならば、茶の湯者にとって一番刺激的で面白い時代であったに違いない。 

 18世紀後半から19世紀にかけては茶の湯の遊芸化がさらに進む。それは幕藩体制の揺らぎとも無関係ではない。茶の湯文化も衰退期を迎える。それを証明するかのように各階層からも茶の湯批判が起こる。しかし、それを正す力は誰も持っていなかった。儒者、文人、国学者をはじめ、家元自身も批判する。幕末最後の大茶人井伊直弼も「快楽する道にて、行やすき道にはあれども、法中に邪道を 説く者ありて、よく人を導く故にその説を面白しと、是に汲みする 類も多く成行事、是は喫茶の不行ざるよりも、又、格別に嘆かわし きの至極なれ」と遊芸化の進んだ邪道な茶道が流行する当世を嘆いた。

 江戸の武家文化は、習俗的であった茶の湯を雅の文化を加え一気に完成させた。それを世の人は「綺麗さび」と称した。

 雅とは品格である。俗とは人間味である。江戸時代の茶の湯は品格ある茶から次第に俗なるもの人間味が加わってくる。それが行き過ぎると遊芸化が一段と進む。

 現代でもなお、茶の湯は雅と俗の間に揺れている。

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