竹は茶の湯にとってはなくてはならない素材の一つだ。例えば、茶杓、花入、茶器、蓋置などの表道具、茶筅、柄杓の水屋道具、茶の湯の舞台になる茶室、そして雪駄にいたるまで、竹は茶の湯の源流を探るにあたっての深いテーマである。
竹と日本人の関係は、縄文時代まで遡ることが出来る。縄文晩期(約3000年ほど前)の青森県内の亀ヶ岡遺跡や是川遺跡では、竹で編んだ籃胎漆器が発見された。
神話の世界でも竹は特別な役割をに担っていた。イザナギがイザナミを探しに黄泉国を訪れたとき、左の角髪(みずら)から櫛を抜き、それに火を灯した。そしてそこから逃げ出すときには、右の角髪の櫛を追ってくるヨモツシコメの方へ投げつけた。するとそこにタカンナ(タケノコの古名)が生え、それを黄泉醜女が食べている間にイザナギは逃げ延びた。
スサノヲも櫛の呪力でヤマタノオロチに打ち勝った。神話の世界だけでなく、櫛が古代人にとってどれほどの聖なる力を持っいたかは、宮崎県で鳥居龍蔵によって発掘された、天下(あもり)古墳や浄土寺山古墳の副葬品が証明している。遺体には数十本の竹櫛が刺してあったのだ。
その他、コノハナサクヤヒメが竹で作った刀でへその緒を切きり、捨てた竹の刀がたちまち竹林になって産室になったという話等々、竹にまつわる話は枚挙にいとまがない。
アメノウズメは天照大神のために手に笹を持って踊った。現在でも能や歌舞伎そして神楽の舞人が手にするものを採物(とりもの)と言うが、それは笹であり依り代でもある。
木にもあらず 草にもあらぬ 竹のよの 端に我が身は なりぬべらなり
竹の神秘性を語るのに頻繁に取り上げられる歌だ。木でもなく草でもない竹の、さらにその「よ」の空間のように、世の半端ものにこの身はなってしまったようだ、という意である。
竹は、その驚異的な生長力や、不死と見紛うほどの生命力、節間が作る不思議な空洞などから聖なる植物とされてきた。120年に一度と言われる一斉開花もその神秘性を高めた。
竹は呪力を持つ。この観念は、竹や笹が生育する地域が共有する民俗文化だ。神降ろしの結界を作るとき、生竹を立てて注連縄で囲む。神社などの竹垣も、境界を聖別するものである。竹で編んだ籠も呪具であった。籠目は「鬼の目」とも呼ばれるが、実は邪霊の侵入を拒む聖なる目である。逆もあり、時代劇などで設えられる刑場での竹囲みや罪人を入れる籠は、邪を封じ込める呪法であった。
竹は呪力を持つ故に誰もが扱えるものではなかった。特別な能力が必要とされたのだ。それ故「竹取物語」の逸話等、竹を扱う人々は古来から差別との闘いでもあったのだ。
その竹を取り入れたのは侘び茶の時代だ。聖なる茶室には呪力を持つ竹は本来持ち込めない。タブーである。タブーへの挑戦が侘び茶の特質でもあるのだ。
茶人の魂とされる茶杓も、茶人自ら竹藪に行って竹を切り、削り作ったわけではない。下削りの職人がいて原型を作った。竹の花入も同様だ。作った人が作人ではない。設計者が作人となるのだ。
花入で一番大切なことは寸法である。「墨をする」と云って、寸法を決めることに意味があり、墨を入れていった。それ故、竹の姿を見極める力、目利きこそが重要になってくる。昔は秘伝中の秘伝であり、「墨寸法之儀御伝授被成下辱仕合奉存候如御差図他見他言不仕花入墨之儀云々」と云うように誓詞を入れた。
竹は呪力を持つと考えられていた故に、竹を扱う職人の手を加えてはじめて茶人が手にすることが出来た。
竹は侘び茶の謎を解く鍵でもあるのだ。
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