2014年8月20日水曜日

茶の湯で哲学する〜色〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「色」。

 20年ほど前に小堀遠州350年遠忌を記念して「数寄大名の美学 綺麗さび展が全国各地で開催された。その中で茶の湯三代宗匠、千利休、古田織部、小堀遠州の茶風を色の違いで表現した。それが利休の黒、織部の緑、遠州の白である。この色のイメージはそれぞれが好んだ焼物に由来する。

 利休の黒は楽焼。楽焼に代表される黒樂茶碗、赤樂茶碗を造ったのが長次郎であった。その独創的な造形には千利休の侘の思想が濃厚に反映されていると云われる。黒は暗黒を意味し、すべてを飲み込んでしまう力強さを感じる。黒に魅了された茶人は多い。

 織部の緑はいわゆる織部焼。釉薬の色により、織部黒・黒織部、青織部、赤織部、志野織部などに分類される。その中でも緑色の青織部が最も知られている。しかし、茶碗のほとんどは織部黒・黒織部であり、青織部のほとんどが食器類だ。織部焼は当初からの名称ではなかった。謀反人故か。「セト茶碗 ヒツミ候也 ヘウゲモノ也」と驚きを持って世に登場した織部の茶碗。その名が焼物の名となるのは死後50年経た寛文年間頃からであった。すでに江戸時代から青い焼物は織部という認識があったようだ。青は生命の色であり、人々に癒しを与える。青は万人を惹きつける。織部焼が好かれる所以だ。

 利休の黒、織部の青(緑)に対して遠州は白に象徴される。水仙を好んで生け、遠州木槿と名付けられたその花の色も真っ白だ。一方、遠州の道具はもちろん白も含まれるが、その好みは多彩だ。白は光であり全てのモノを明るく照らす。「崇高」「気品」「洗練」「清浄」など『綺麗寂び』をイメージさせる色なのだ。

 色は色相をあらわすだけでなく、宗教的意味合いも強い。さらに、色は両義性を持っている。また、現代と古代の色の認識も異なる。

 古代の色彩名「赤」「黒」「白」「青」がある。「赤」は独立して使われるのではなく、「黒」と一対になって使われてきたそうだ。それが、「明るい」が「あか」暗いが「くろ」になってきた。

 「白」は神秘的な色の表現であり。「赤」「黒」は光の明暗度を示すもの、明るい暗いといった。「青」は、色を持つものをすべてを表現したものだ。

 白は光の色ということから世界的に崇高な色として尊ばれた。しかし、白は悲しみの色でもあった。死に装束とは、故人に対して施される衣装のことである。白を基調とすることから白装束とも称される。

 白に関してはもうひとつ素という意味、自然そのものの色という意味だ。因幡の白兎は白い兎ではなく、素の色、つまり茶色の兎であった。

 抹茶も利休時代のお茶を白茶と云った。もちろん中国茶で云う白茶とはまったく違う。これも見た目ではなく自然の色、茶の葉そのものの色といった意味に近いのだろう。茶色というのは、平家物語にも出てくるそうだが、茶で染めた色だ。当時、庶民が飲んでいたお茶は番茶(晩茶)だったと思われる。これも茶系だ。それに対する自然の茶葉の色、白茶ということだろう。さらに織部は青茶を好んだといわれる。素の茶葉の色がさらに変化した色ととらえた方が納得できる。
 
 16世紀に来日したイエズス会の司祭ヴァリニャーノは「我等と嗜好は反対であり、我等がもっとも好むものを彼等は一般に嫌悪し軽蔑する。反対に彼等が非常に珍重するものを我等は口にすることができない。同様に我等が美しいと思うもの、我等の眼によく見える色彩を一般に彼等には価値がない。我等が明るく陽気と思う白色を、彼等は喪と悲しみを表すものと考え、我等が喪中に身につける黒色と紫色を彼等は喜ぶ」と述べている。

 喜ぶという訳が適切か否かは検証する知識を持ち得ないが、むしろ尊ぶという方が当時の日本人の考えに近いだろう。古来、黒や紫は高貴な人が着る衣装の色であった。畏敬の念をもっていたのだ。力の象徴でもあった。利休は「黒は古き心」と云い、秀吉は逆に嫌ったと伝えられる。これはたんなる美意識云々の違いではなく、むしろ秀吉は黒を自在に操る力を恐れた云うべきだろう。

 紫は、狂喜、下品、高貴、病気、高級感、正反対の意味を持つ。ヨーロッパでは青みがかった紫は、葬儀や憂鬱さと結びつき決して麗しい色ではない。

 紫に染めるのは染めるのは大変手間がかかり、手に入れることが難しかったことから権力の象徴的な色と結び付けられた。日本でも紫草の根が染料として使われたが、収穫量の少なさや染めるのにこ手間がかかるため、位の高い人や僧の衣の色に用いられた。

 また、紫草は薬としても使用された。病人にとっては高価ではあるものの必要不可欠の薬であった。歌舞伎や時代劇など紫の鉢巻を巻いている人は病気や病弱の印で、当時は飲むだけでなく、染めたものを幹部にまきつけるだけで効果があると思われいた。

 袱紗の色は、茶道でも一般の袱紗も同様慶弔どちらでも使えるのは紫といことになっている。

 利休が黒好みであったことはよく知られている。とくに、天正十八年(一五九〇)九月十日、博多の商人神屋宗湛と大徳寺の珠首座を招いての茶会で、黒茶碗を使い、これを片付けて瀬戸茶碗に置換え、「黒キニ茶タテ候事、上様御キライ候ホトニ、此分ニ仕候」といった話(宗湛日記)は有名である。上様つまり秀吉と利休との美意識の対立を示す挿話として、また間もなくやってくる利休自刃の悲劇を予測させるものとして、利休を語るときにはしばしばこの話がとりあげられている。

 利休の茶はタブーへの挑戦でもあると何度か述べてきた。利休の好んだ色からもそれを垣間見ることが出来る。黒楽、赤楽もタブーの色であったのだ。死の穢、血の穢である。秀吉は聖なる空間、茶室に穢の色を持ち込んだことに嫌悪感を抱いたのかもしれない。

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