珠光の物語とて、月も雲間のなきは嫌にて候。これ面白く候
室町後期の能役者、金春禅鳳の言葉だ。村田珠光が、月は満月で煌々と輝いているよりも、雲がかかって見え隠れしている方が好きだと言ったのに共感し、それを「面白い」と云った。茶の湯と能の共通の美意識として取り上げられるエピソードの一つだ。
「茶の湯」と「能」。この二つの芸能の歴史を振り返ると、共通の道を辿ってきたことがわかる。
世阿弥の「風姿花伝」によると江戸時代までは「能」は「猿楽」と呼ばれた。その起源を次のように述べている。
推古天皇の御宇に聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつては天下安全のため、かつは諸人快楽のため 六十六番の遊宴をなして申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮つてこの遊びの媒とせり
推古天皇の時代、聖徳太子が秦河勝に命じて、ひとつは天下太平を祈るため、もうひとつは世の人の娯楽のため、66番の芸を演じさせられ、申楽となづけたのが始めとされた。
一方、茶の湯は山上宗二記に「夫茶の湯の起は、普光院殿(六代義教)、鹿苑院殿(三代義満)の御代より唐物絵賛等歴々集り畢」とある。ちょうど申楽が武家政権に認められ、次第に洗練されていく時代と重なっている。
さて、世阿弥も昔から世に知られた人物と思われがちであるが、あくまでも伝説上の人物に過ぎなかった。その姿があからさまになったのは近代に入ってからだ。彼の著書が発見されたのが明治41年、今から100年ほど前にすぎない。幕末の大茶人井伊直弼が世に知られるようになったのも明治45年。「一期一会」「独座観念」の彼の茶道理念が世に知られるようになる。偏に茶道も能も武家文化の中枢であったがことがその背景にあった
能は京都・奈良に多数存在した大和猿楽と呼ばれた 民衆の演劇集団の一つに過ぎなかったが、足利義満によって見出され武家政権に迎えられる。茶の湯も伝説によると、村田珠光が能阿弥の推選によって義政の東山山荘に召され,その茶道師範となり,珠光流茶の湯の極意を相伝したといわれている。
能と茶の湯は庶民の一芸能に過ぎなかったものが、室町時代、足利将軍家によって社会的地位を上げ、江戸時代には武家の嗜みとして礼法として、身につけなくてはならない教養として広まった。そして、各藩は競って能楽師や茶頭を召抱えるなどして、藩主自らも研鑽に励んだのだ。茶会では茶道と能のコラボレーションも頻繁に行われた。茶会の後、拍子や能などの芸能が行われたのだ。
武家にとっての能も茶の湯もその尤も配慮しなければならない対象は貴人である。
申楽は貴人の御出を本とすれば
貴人の御意に叶えるまでなれば、これ、肝要なり
と能も貴人の心に叶った演じ方をするのが大切であった。茶の湯もしかり。貴人をどのようにお迎えするかが茶の湯の礼法の一つとなったのだ。名物茶器のほとんどが将軍家、大名家のモノとなり、江戸時代の茶の湯は武家のリードのもと発展する。町人の茶の湯は家元制を背景に、稽古という新たな分野が確立され遊芸化の道へと進んでいった。
能も武家の式楽となったことで、一般庶民とは縁遠いものになった。庶民たちの楽しみも、一年に数回しかおこなわれない勧進能や町入能など限られた機会となった。
しかし、謡本の普及により全国各地に愛好者が増え、謡曲のさわりの一節を謡う「小謡」の流行により小謡本が刊行されたり、能の一部を装束をつけずに舞う「仕舞」の稽古のため仕舞謡の本も作られた。町人の間でも能も遊芸化していった。
江戸幕府が滅び、明治維新となると大名から俸禄を貰っていた茶人、能楽師たちは生活の糧を失い、困窮を極める時代を迎える。その結果、多くの能役者たちが代々の技芸を捨てることとなり、能は壊滅的な打撃を受けた。
明治維新以降、武家文化が否定される中根絶しなかったのは、庶民の間で茶の湯も稽古礼儀作法として、能も小謡が教養として学ばれ、その火が絶えなかったことが、その復興に繋がったものと思われる。
このように武家社会を背景に茶の湯と能の密接な関係は、茶道具の銘からもみてとれる。高砂 翁 飛鳥川 俊寛 桜川 尾上 隅田川 竹生島 野々宮 羽衣等々、幽玄の世界を茶の湯に持ち込んだ。
まず、この道至らんと思はん者は非道を行すべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もっともこれを用ふべし
つまり、「申楽の道でりっぱな役者になろうと思う者は、本職以外の道に手を出してはいけない。もっとも歌道だけは例外で、申楽に芸術性をもたせる手段であるから、しっかり勉強するのように」と述べている。
茶の湯の世界でも武野紹鴎が三条西実隆から藤原定家の『詠歌大概の序』の講義を受け茶道の極意を悟り、「創意工夫」や「作為」の心の大切さを説いた。和歌が茶の湯に芸術性、人間性豊なものにしたのだ。
茶の湯にも能にも同じ言霊が流れていた。
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