2014年8月23日土曜日

茶の湯で哲学する〜政道〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「政道」。

 茶の湯の歴史を振り返ると、信長以来政権交代と無縁ではなかった。政権交代により茶道も顔を変え、性格を変えてきた。

 信長の時代、秀吉の時代、家康以降の江戸時代、明治維新薩長藩閥の時代、明治23年第1回衆議院議員総選挙が実施された以降の政党内閣の時代、5・15事件以降軍閥が台頭した大政翼賛会の時代、戦後、昭和26年サンフランシスコ講和条約以降保守政治の時代、そして現代。茶道は時の動きに敏感であり、時の政権は茶道を利用してきた。

 茶の湯を最初に政治に利用した人物は織田信長である。畿内を平定した信長は、「名物狩り」により名物茶器を集め、家臣が勝手に茶の湯をすることを禁じ、茶会を開く許可や茶器を与えることを恩賞とするようになる。後の世に「名器は、一国一城にも値する」と云わしめた。茶の湯御政道である。

 細川幽斎の 「武士の知らぬは恥ぞ馬茶の湯 はぢより他に恥はなきもの」とは、ハードパワーとソフトパワーの両輪の重要性を述べたもとも云える。どちらが欠けても国は治まらない。闘わずして、己の価値を持って相手を魅了する力がソフトパワーである。茶の湯で云う「おもてなし」という言葉に置き換えることも出来るだろう。

 その精神を引き継いだのが江戸時代であった。武士、政治家にとって茶道の教養は必須であった。それは交際儀礼としては勿論、儒学思想を背景に、自らを律し、国を治める、家を守るための、武士としていきてゆくための哲学でもあったのだ。

 今から150年程前、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が水戸・薩摩の浪士たちによって暗殺された。有名な桜田門外の変だ。直弼の政治家としての評価は分かれるところだろう。安政の大獄のイメージがあまりに強く、厳しい評価も多い。しかし、彼は幕末最後の大茶人であり、真の政治家であった。直弼は今の政治家に一番欠けている覚悟力、対応力、決断力、そして理念を持ち続けた。それは部屋住みの頃から嗜んだ茶道が強く影響していると思われる。

 茶事は己が所業を助る道なるか故に、士農工商ともにまなびて益有る

 井伊直弼の『茶道壁書』の第一条に記された一文である。その奥書には、安政五年と書かれている。安政の大獄の始まった年、直弼が暗殺される2年前だ。その心は、直弼が部屋住みの頃に書かれたと思われる『茶道と政道』にあるようだ。

 上は己が身にたれりとする故に下をあわれみ、下は己が身にたれりとする故に上をうやまひたすく、富者たれりとする故にほどこし、貧者たれりとする故にあながちもとめず、是、知足の行はるる所

 国家あまねく喫茶の法行はるるときは、ここにしるすがごとく、上下ともに己が身を守り楽しんで、憂るものなく、仇するものもなからん

 己の不遇を嘆くことなく、足るを知ることこそ、太平静謐なる世を送る術であった。直弼にとって茶の湯は封建社会を生きるための智恵の源であり、「士農工商ともにまなびて益有る事」も、為政者として万民の不平不満を、政策で統制、弾圧するよりも、茶の湯の思想が広く行き渡っていればと云う懺悔と願いが込められていたのかもしれない。

 一方、「喫茶は独道の法にして、政道などに預るべきの器にあらず」とも述べている。しかし、その心は「上に喫茶嗜む時は其国に幸し、下に喫茶を嗜む時は、一人は一人、二人は二人など、政治の無事、助となるべし」とある。つまり、国中上下とも茶の道に入ればその国は平和が訪れるというのである。

 直弼の真の姿は平和主義者であった。士農工商、国中上下とも茶の道に入ればその国は平和が訪れると信じた井伊直弼。彼の理想は、権力ではなく文化力で国を治めようとしたのだ。若い頃に茶の湯を志してから暗殺されるまで変わらぬ信念であった。

 茶の湯を社会にどのように生かすかは、使う人の理念に負うところが多い。生かすも殺すも使う人によるのだ。直弼が暗殺されなければ、信長以来の茶湯御政道の復活はあったのか?信長と直弼の違いは、茶の湯の規制強化と門戸解放であった。

 現代の価値観から見ると愚民化戦略ではあるが、動乱を予兆させる世の中、幕藩体制を維持するための平和的手段が茶の湯の思想であったのだろう。国民皆茶を目指した直弼であったが、茶の湯は武家政治の終焉と共に明治維新以降、一気に衰退の道を辿ることになる。

 直弼はその後の茶道の行く末を見据えてか、忠告も忘れていない。

 (茶道は)快楽する道にて、行やすき道にはあれども、法中に邪道を説く者ありて、よく人を導く故にその説を面白しと、是に汲みする類も多く成行事、是は喫茶の不行ざるよりも、又、格別に嘆かわしきの至極なれ

 間違った茶道は世を滅ぼす、、、。

0 件のコメント:

コメントを投稿