2014年8月3日日曜日

茶の湯で哲学する〜触〜

毎月1回、日本橋・茶友倶楽部空門で空門サロン「茶の湯で哲学する」を開催している。その日のテーマは前回の聴講者からのリクエストに応じて決め、私の基調講演の後、皆で意見を出し合いながら様々な角度から茶の湯を考えていこうという参加型のサロンである。今月で40回目を迎えるロングラン講義だ。

記録もかねて当日の基調講演のダイジェストをランダムにブログに挙げていきたいと思う。

今日のテーマは「触」

茶の湯は五感で楽しむものとよく言われる。五感とは「視覚,聴覚,味覚,嗅覚,触覚」のことだ。視覚は茶の湯の中で一番重要視されている感覚だろう。掛物、花、諸道具、設え、景色等々、様々なものが眼を楽しませてくれる。さらに昔から言われているように茶人は目利きでなくてはならない。茶人として生きていく上での最低条件である。さらに目明きという言葉もある。視覚的に見ることだけでなく、心眼という心の目も開かなくてはならい。

二番目の聴覚。茶の湯には様々な音に満ちている。しかし、茶室の中は静謐でなければならない。昔は釜の蓋を蓋置に置く音、茶碗を畳に置く音、茶杓にて茶碗の縁を叩く音、これを三音と云って許される数少ない音であったという。(これは「音」と云うテーマでも哲学したので後日改めてアップさせていただく)

三番目の味覚。舌で味わう。それはお茶の味であったり、お湯そのものであったり、さらには料理やお酒であったり、現代の茶事ではこの感覚が喜ばれることが多い。

四番目の嗅覚、鼻で聞き分ける。それは香や茶の薫りであったり、あるいは露地の緑の薫りかもしれない。

そして最後に今日のテーマである触覚。手で触れて感じる。茶の湯ではこの五感を大切にしてきた。

さらには六番目の感覚、実はこれが一番必要なことかもしれないが、心の働き、作用が重要になってくる。時にはインスピレーション、勘、直感、霊感だとか、人によってはいろいろな言葉で著される。この第六感が、人間の本能的な感覚、五感により強く働きかけ、心の動き、いかに心を通わせるかによって茶の湯というものがより豊になってくるわけだ。普段生活していると、この五感、あるいは第六感をふるに働かせる機会が大変少ない。というよりも意識することはほとんどない。さらに、その五感さえも危うい人たちが多くなっている。それらを呼び覚ます茶の湯というのは、文化を継承するということ以上に現代人に必要なものかもしれない。

さて、今日のテーマである「触」。触れるということは、ものに触れるというそのものの意味と、ものに触れて感じるという二つの意味が含まれている。当然茶の湯では後者ということになる。茶席の中でも、茶入、仕覆、茶杓、茶碗の拝見等々、客のリクエストに応じてさまざまな場面で道具に直接触れる機会がある。

多数の人たちが集う大寄茶会でも、最低限誰もが茶碗で飲むという機会は均等に訪れる。それは手にとる感覚もあり、口に触れる感覚もある。身体の一部が道具に触れることによって、さらに道具を身近に親しく感じるようになるわけだ。

触覚というのは茶の湯においては一番最後に取り入れられた感覚ともいえるだろう。茶の湯の歴史を紐解くまでもなく、室町将軍家を中心に中国から様々な絵画、墨蹟、陶磁器類が入ってくる。これらが東山御物として茶の湯の原型となる。これらの宝物は鑑賞、つまり視覚に応えるものであったが、特別な身分の人でなければ触れることはもちろん、見ることさえも出来なかった。

茶の湯が爆発的に流行した理由の一つが「触れる」ことである。これまで高貴な人たちの占有物であった名物と称された茶道具を、室町将軍家の衰退にともなって武家だけでなく庶民も手にとって拝見出来るようになっただけでなく、さらには自分の所有物することが可能となったのだ。

AKB商法の一つと云われる握手会は、雲の上の存在で遠くから眺めるだけだったアイドルを、触れるということでより身近なものに変えた。AKBの成功は、五百年以上も前の茶の湯の手法を採り入れた商法ともいえるのだ。

長闇堂と呼ばれた小堀遠州と親しくしていた袋師がいる。本名は久保権大輔。長闇堂と名付けたのは遠州であった。権太夫は方丈の庵を作って遠州に名前をつけて欲しいと頼んだところ、鴨長明にちなんで、「長明は聡明だから”明”とすれば、あなたは物を知らないから”闇”だ」というわけで長闇堂と名付けた逸話が伝えられている。茶の湯に傾倒した長闇堂は身分も低くお金もない。名物をはじめ様々な道具を拝見したいがどうしたら良いのかと遠州に相談したところ、袋師になりなさいとすすめられた。つまり、道具の袋を作る時はその道具が手元にないと作れない。袋を作っている時だけは天下の名物もあなたの手の内にあると云うことなのだ。

触れるということは、自分の意思とは無関係に自然に感じることが出来る視覚、聴覚、味覚、嗅覚とは異なり特別な感覚だ。触れるということは自分の強い意思が必要となってくる。この触れてみたいという心からの叫び、欲求が伴って茶の湯がさらに昇華されるのだ。



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