2014年8月16日土曜日

茶の湯で哲学する〜アート〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「アート」。

 アート、美術、芸術は洋の東西を問わず、神との関係を抜きには語ることが出来ない。ヨーロッパの教会や美術館に足を運んでも、18世紀までの美術品、建築物は、宗教的知識、とくにキリスト教の知識なくしては、なかなか理解することが出来ない。それは、日本においても芸能と呼ばれる雅楽、和歌、茶道、華道、能、狂言、蹴鞠等々も同じある。

 宗教の影響を強く受けていたヨーロッパのアートもフランス革命によって激変する。その辺りの事情は椹木野衣さんの著書「反アート入門」に詳しい。1789年にフランスで始まった市民革命(ブルジョア革命)によって、ブルボン王朝が崩壊し、第一共和政が樹立される。それまでの特権階級であった王侯貴族達が没落していき、主役が市民となる。また当時の聖職者たちは特権階級に属していたので、キリスト教は徹底的に弾圧され、追放、破壊が繰り返された。

 そこで何が起こったか?アートが神の手から離れていったのだ。政治の主役が神や王侯貴族たちから、市民となった。そうすると、これまでの神話や宗教に根ざしたテーマで描く必要がなくなり、自分の描きたいものを描くようになる。宗教的タガがはずれたのだ。そして、新たなアートが出現する。それがモダンアートであり、現代アートに引き継がれる。

 日本でも同じことが起こった。明治維新だ。明治維新の中心となったのは地方の下級武士たち。武家文化、仏教文化を否定し文化破壊を行った。大名がパトロンであった能や茶道なども否定された。それは経済的な面だけでなく、思想的にも大きな影響を与えた。江戸時代まで禅宗、儒教の教えの影響を受けていた茶道、武士が生きる上での規範としていた茶道が寸断されていくことになったのだ。つまり、作法、工芸、建築、花、料理等々とそれぞれが独立した形で歩みはじめる。神のタガ、宗教のタガが外れた。

 それは、数寄者の登場によって最高潮を迎える。有り余る財力を背景に言葉は悪いが美術品を買い漁る。宗教的、思想的バックボーンがなくなり、趣味という新たな分野が生まれたのだ。彼らのお陰で茶道具が散逸せず、我々は名品を今なお眼の前にすることが出来る。その功績は計り知れないものがあるが、道具がたんにモノになってしまったことにも留意すべだろう。

 しかし、茶道はそれ以前に、神のタガ、宗教的タガが外れた時期があった。利休の時代である。前回、利休の茶の湯は異質だ、言霊がないと述べた。中世最後の大芸術家でありながら、もっとも中世的なるもの歌心、つまり神の心が見えないのだ。日本の芸能、美術だけでなく、歴代の茶人の中でも異質な存在だ。

 欧米のアートが宗教のタガがはずれ、モダンアートから現代アートへの流れはおよそ200年を要した。しかし、利休が天下一の宗匠として活躍した時期は6年。たった6年で利休の茶は200年のアートシーンを駆け抜けたと云っても過言ではない。利休の異質性はその後の江戸時代の茶の湯にも影響を残した。

 和歌は神との関わり抜きには語れない。神、宗教から離れたところに侘び茶が生まれた。宗教には様々なタブーが存在する。タブーを破ってきたのが利休の侘び茶であり、利休の美でもあるわけだ。(タブーに関しては別項で)

 呪術的意味合いの強かった竹や茶壷を茶室に持ち込む。見立てと称して茶道具に仕立てる。また、床の間に飾るべき茶壷をにじり口に置き茶室への入り口を塞いだ話、花入に花を生けず水ばかり入れて飾る、雨が降った後、床壁にさっと水を打った跡だけが残すなどの数々の茶の湯の逸話はコンテンポラリーアート、サウンドアート、コンセプチュアル・アート、リレーショナルアート、インテリアアート、多文化主義など、まさに現代アートとして評価されていることが、400年以上も前に茶道シーンで既に行われていたのだ。

 利休はタブーを破り、斬新な発想で侘び茶と云う新しい美の体系を創り上げた。16世紀、茶の湯に出会ったヨーロッパ人のみならず、多くの日本人が理解出来なかったのは当然だろう。茶の湯は利休や遠州の後ろ姿を追いかけながら時を待ち、アートは変容を繰り返しながら時代の求めに応えようとしてきた。

 21世紀のアートがこれから歩む物語は楽しみだ。現代美術のこれまでの道程は、400年以上前の茶の湯に既に示唆されていた。そして、今、茶道もアートも同じスタートラインに立っている。これから世界のアートは誰もが経験したことのない未知の世界が待っている。私たちはその時代に生きているのだ。現代のアートは茶道を嗜む者にとっても刺激なのだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿