2014年8月2日土曜日

茶と禅 その2

 床の間の掛軸は昔も今も重要な茶道具の一つだ。江戸時代以降、茶人たちの思想に大きな影響を与えた南方録には「掛物ほど第一の道具はなし、客・亭主共ニ茶の湯三昧の一心得道の物也、墨跡を第一とす、其文句の心をうやまひ、筆者・道人・祖師の徳を賞翫する也」とある。その精神は今でも受け継がれ、我々茶人たちが最初に床の間の掛軸に一礼する所以だ。

 墨蹟とは、もともとは唐宋時代の臨済宗の高僧の書のことを云った。 その内容によって「印可状(いんかじょう)」「示人法語(じじんほうご)」「道 号・庵号(どうごう・あんごう)」「偈頌(げじゅ)」「遺偈(ゆいげ)」などに分 けられる。そして、現代では「日本の禅僧の書」、鎌倉、室町時代だけでなく、江戸中期 の頃まで墨蹟と呼ぶようになった。

 さて、今日のように大徳寺の僧侶の掛軸を掛けるようになったのは江戸時代に入ってからである。そのキッカケを作ったのは小堀遠州のようだ。遠州は参禅の師でもある春屋に傾倒する。利休も織部も宗旦もしかり。 茶の湯者たちはある者は弟子となり、ある者は春屋と親交を深めていった。

 近衛家煕の『槐記』には「春屋は遠州がもてはやしけるにより、沢庵、江月と共に世上に流布す。宗和は大い嫌ひなり。何時も無禅が話に、宗和の申されし、今日も好き茶湯に行たり。何も出来たれども、例の坊主めが床にありてと嘲られしとなり」とある。

 事実、遠州は茶席に春屋の掛軸を記録でわかるだけでも41回掛けている。遠州以降、沢 庵、江月など茶人たちの間で大徳寺の僧たちの書が流行する。

 ところが、同時代の人物の書を掛けると不都合なことが起こる。相性いうか好き嫌いというか極めて人間的感情に左右されてしまう。茶人たちに影響を与えた春屋であったが、春屋嫌いという茶人もい た。金森宗和だ。茶会で春屋の書に出会った宗和は「例の坊主めが 床にありてと嘲られし」とある。”例の坊主め”とはなかなか辛 辣だ。

 それ故、南方録に「筆者・道人・祖師の徳を賞翫する也」とあるように、床の 間という客よりも一段高いところに掛けて頭を下げさせることから、亭主はよくよく当日の客組にも気を使わなければならない。だから何が書いてあるかよりも、誰が書いたのかが大切なのだ。

 現代は大徳寺の書を第一とする風潮となっている。

0 件のコメント:

コメントを投稿