花は野にあるように
花を生ける心得としてしばしば引用される利休の言葉だ。野にあるように生けるには花を知らなければならない。『槐記』には次のように述べられている。
凡そ花を生るには、必ず先づ花の面を知ること第一なり。必しも面を前にせよと云事には非ず。脇を見ても、面を脇へしても、正を第一にして、面を知りて生るは好き也
花に限らず森羅万象、そのものが持つ真の顔がある。花の顔、正面を知るということは、その花の性格を知るということだ。まずは花と正対して話をする。花に嫌われると生けるのもままならない。
同じ花を生けるにしても、茶席で生ける花と華道の生け方は異なる。
近衛殿遠江守殿を振舞被申候とて池坊専好ヲ御呼生花被申付候、扨遠州此花ハと御挨拶ニ、茶湯ノ心かつて不好者ノ入候由被申候
『桜山一有筆記』に述べれている。華道の名人がどんなに素晴らしく生けようとも茶の湯の心知らなければ相応しくない。
『茶道望月記』には次のよう述べる。
立花は随分花の色香の久しくたもつを手柄と習にしたる物也。茶事の花はただ其一盛りなるを賞翫感情とする有り
茶の湯の花はその一瞬を大切にする。物の哀れと云ってもよいだろう。華道の花は基本的な形式が決まっているが、茶の湯の花は投げ入れの妙と云われるように自由である。決まった形がない。しかし、文字通り投げ入れてしまってはダメだ。自由だからこそ、自然の形に逆らわず、調和を崩さないよう繊細な心で生けなくてはならない。その心は、自然の中での茶会、野点の極意にも通ずるのではないかと思う。南方録に「定法ナキガユエニ 定法、大法アリ」と。
投花は跡のヒカへ専なり。客生は亭主の方へ、生は客のへ。をもく投るは悪しく。投花は織部殿より
『茶道四祖伝書』によると、投花入は古田織部が始めたとされている。亭主が生ける場合は客の方へ斜めに生ける。客が亭主から花を生けることを所望された場合は、花の向きは亭主の方へ向ける。敬いの気持ちからだ。だから、客は床の間に正体して正面から見るのが礼儀だ。けっして覗き込んだり、斜めから見ることは控えるべきである。
遠州は花を生ける極意として論語を引用した。
子曰く、質、文に勝てば則ち野なり。文、質に勝てば則ち史なり。文質彬彬として、然る後君子なり
吉田賢抗の解釈によれば、”質”とは生まれたままの素朴な性質のこと、”文”とは美しい飾りのことで、学問をするに従って後から身につく教養をを云う。”野”とは粗野で田舎びたこと、”史”は知識はあるが誠実さに欠ける人を云う。質と文がいずれも優っても、粗野になったり、誠実さに欠けたりする。
つまり、自然のあるがままの花の姿(質)に、人の心(文)が加わり両者が調和してはじめて花を生けることが出来る。己の茶の湯に姿があるとすれば、それは花の姿に違いない。続けて、『風雅和歌集の序』の一節を述べる。
姿たかからむとすれば、その心足らず。言葉こまやかなれば、そのさまいやし。えむなるはたよれすぎ、つよきはなつかしからず。すべてこれをいふにそのことはり、しげき言の葉にては、のべつくしがたしむねをえてみずからさとりなむ
しかし、姿に囚われ過ぎると、心が足りなくなる。技巧に走り過ぎると、嫌らしくなる。あまりに微笑むような姿は弱々しく、あまりに強すぎるのは親しみがもてない。この道理は、どんな言葉を使っても説明することが難しい。だからこそ自らが悟らなくてはならないのだ。
『槐記』には花を生ける時の注意点が数々述べられている。
花を生るる事を今の世には。曾て穿鑿なし、大方の人投入と云は、立華などのように、撓つ歪めるして入るる事でなし。枝の形を其儘に入るるを投入と云と覚へて居るは、大なる心得違ひなり。昔の人の生木生花の形を傷はずと云は、撓ぬこと歪めぬことに非ず。唯其木其草、其花其枝によりて、夫々に生れ付たる質のやうに、生付を傷はぬようにせよと云事なり
花を生るに、花をむしると云うことあり。むしるにて、枝も花も格別に好くも悪くもなることなり
茶道の言葉を素直にそのまま解釈してはいけないことが多い。”投げ入れ”もその一つだ。切ったばかりの枝や花をそのまま生けることが投げ入れではない。時には枝を撓めたり、余分な花や葉を落とす必要もある。それは一輪の花を生かすためただ。自然にある姿を常に頭に入れて生けることが大切なのだ。
僅か数本のことではあるが、花を生けることは難しい。亭主の器量が試されるわけだから。花を生けるのも、歌を詠む時と同じ心持ちで生けなくてはならない。技巧だけにたよってはいけない。自分自身で悟ること、”心”が大切なのだ。その人の心が花の姿に現れる。
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