2014年8月27日水曜日

茶の湯で哲学する〜境界〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「境界」

 茶の湯は境界で行われる儀式である。

 茶道の精神の一つが「おもてなし」。日本の「おもてなし」の起源は、祭りを代表するように神さまをお迎えすることにある。そして「おもてなし」をするためだけの特別な空間が作られた。日常生活の場ではない非日常の場所、つまりキヨメられた空間を作るのだ。そこには仕切られた空間に境界が張り巡らせた。その究極の場所が神社なのだ。

 日本人は古来から境界を大切にしてきた。境界はこの世と異界をつなぐ場所と考えられ神聖視されてきたのだ。そこでは世俗との縁が切れたと考えられ、誰もが自由に出入りが出来た。それ故、現代では薄れつつあるが、境界は汚してはいけないという共通意識、タブーが生まれた。

 茶の湯も茶室という特別な空間が作られ、日常と非日常を明確に区別した。茶室はもともと囲いと言って、広間の片隅を屏風で囲ったことから始まった。境界を作ることで、日常と非日常の場所をわけたのだ。身分の上下に関わらず一座建立出来たのも、茶室が境界故なのだ。

 天正15年(1587)10月1日に京都北野天満宮境内において、関白太政大臣豊臣秀吉主催の大茶会が催された。それに先立って、告知されたのが次の高札である。

一 北野の森において向こう十日間、天気次第で大茶の湯を催し、御名物どもを残らず揃えて数寄執心の者に見せる。
二 茶の湯執心とあらば若党・町人・百姓以下によらず、釜一つ、つるべ一つ、呑物一つでもよい。茶のない者はこがしでも差し支えないので持参すること。
三 茶の湯の座敷は北野の松原であるから、畳二畳敷きで事が済む。ただし、侘び者は、地べたでも筵でも良い。着座の順序など自由。
四 日本のことは申すに及ばず、数奇の心がけのある者は、唐国の者までも罷り出よ。
五 遠方の者も参加出来るよう十月十日まで開催する。
六 このように仰せ出されたのは、侘び者を不憫に思し召されてのことであるから、今度罷り出ぬ者は、今後こがしをたてることも無用である。罷り出ぬ者の所へ参ることも同様に無用と心得よ。
七 特に侘び者とあらば、誰々遠国の者にかかわらず、秀吉公の御手前で御茶を下される筈である。

 茶道史での評価は多数の名物道具が使われ、茶席の数も800を数えたと伝えられるなど秀吉の権勢誇示のためとの位置づけている。10日間行われる予定だった茶会も、1日で中止となった。中止の理由は肥後での一揆のためとか諸説ささやかれるがその真相は謎である。

 しかし、この茶会の最も注目すべきところは場所なのだ。北野神社の境内で行われた北野大茶の湯は、茶の湯のアジール(聖域)性、境界を考える上で興味深い一大イベントであった。

 秀吉は利休と対比して道化として捉えられることが多い。物語としては面白いが、事実はまったく違う。秀吉ほど古来の因習、慣習に敏感で畏敬をもって接した為政者はいなかった。茶会が開催された北野天満宮こそが茶の湯の深層を知る上で重要であり、この地を選んだ秀吉の信仰の深さを示すものである。北野神社境内でなければ、最初からこの茶会は成り立たなかった。

 中止の理由もアジールの観点から考察するとわかりやすい。あくまでも想像だ。私は境内を穢す何らかの事件が起こったのではないかと考える。例えば境内内で動物の死骸が見つかった。全国から様々な階層の人たちが集まったためイザコザが起り血で汚してしまった等々。事件は小さかったかもしれないが、境界が穢れてしまった事実は、秀吉の逆鱗に触れたのだ。 

 4年後に秀吉が築いた京都を洛中洛外に隔てた御土居の存在もそれを裏付ける。御土居とは北は上賀茂から鷹ヶ峰、西は紙屋川から東寺の西辺、南は東寺南側の九条通、東は鴨川西側の河 原町通まで、南北約8.5キロ、東西約3.5キロ、総延長約22.5キロにも及んだ土塁(城壁)のことである。北野神社も洛中洛外の境界にあり、その西側境内を分け隔てるよう御土居が造られた。北野天満宮の御土居も、穢れてしまった境内を嫌った秀吉が境界の外、つまり洛外に取り除くために造った境界とも考えれる。

 茶室は境界で仕切られたアジールだ。それ故、茶室は常に清めれていないといけないのだ。

2014年8月26日火曜日

茶の湯で哲学する〜茶の湯〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「茶の湯」。

茶道は元来茶の湯と云った。

 茶の湯とはただ湯を沸かし茶をたてて 飲むばかりなることを知るべし
 
  利休が茶の湯の根本理念を説いた和歌として知られている。総合芸術と云われるように、茶の湯の持つ領域は広く、建築、造園、美術工芸、食文化も包含したものである。さらに茶の湯は、ここに思想、哲学がは入ってくる。自分自身を磨き、向上させ、さらに芸術性を加味させねばならぬ。

 しかし、茶の湯者と云うとけっして完璧な茶人ではなかった。

 茶の湯者と数寄者は其の称同じ様にて其の様大いに異なれり。譬えば、茶の湯者は淵のごとく、数寄者は瀬に似たり

 これは細川三斎の「茶の湯覚え書」の一説。茶の湯者と数寄者の違いを淵と瀬に例えて説明したものだ。淵は川の流れが滞って深く水をたたえているところである。しかし、表面は澄んでいるように見えるが、実は水がよどんでいる。瀬とは浅い流れのことで、塵埃などは留めていないまことに清らかなところである。

 茶の湯者は淵で、数寄者は瀬なのだ。

 茶の湯者は、招く人によって態度を変える。自分より偉い人を招くときは、茶も料理も贅沢を尽くし、名器を出して歓待する。しかし、侘者、つまり自分より身分の低い者の時は、等閑のもてなしで茶を濁す。己の道具がいかに価値が高いかを自慢し、自らを数寄者と称する。つまり、茶の湯者は淵であり、外見は立派に見せても中身は傲慢で、水底にたまる塵埃のようなものなのだ。

 一方、心の中も清廉で身分によって差別することなく、誰にでも同じようにもてなす。贅沢もせずモノに執着することもなく茶の湯をする者を数寄者と云い瀬と例えた。瀬は水が浅く明鏡のごとく澄んでいる。また、水底に塵埃も溜めることもない。

 茶の湯を志す人は、清浄な心をもち、欲心をすて,茶の湯本来の姿を見極めていかねばならないのである。茶の湯者とはまだまだ未完成の修行過程の段階なのだ。

 武野紹鷗が門弟に示したと伝えられる茶の湯の心得にも茶の湯者と数寄者の違いが明確にわかる。

茶の湯者の茶人めきたるは、ことの外にくむこと

数寄者といふは隠遁の心第一に、侘びて、仏法の意味をも得知り、和歌の情を感じ候へかし

 茶の湯者が茶人ぶるのは、ことさら軽蔑すべきことである。ここでの「茶人ぶる」とは先に述べた数寄者と称することである。数寄者は隠遁の心を第一に、侘びて、つまり贅沢もせず、仏法に帰依しその心を実践し、和歌の情趣を理解する人のことをさした。

 茶を志すも茶の湯者とは俗人のことなのだ。現代茶道も聖俗あいまったところがあるのも致し方ないところである。それが茶人のランク付けにもつながる。山上宗ニは次のように述べている。

目利ニテ茶湯モ上手、数寄の師匠ヲシテ世ヲ渡ルハ茶湯者ト云、
一物モ不持、胸ノ覚悟一、作分一、手柄一、此三箇條ノ調タルヲ侘数寄ト云々、
唐物所持、目利モ上手、此三箇モ調ヒ、一道ニ志深キハ名人ト云也、
 茶湯者ト云ハ、松本・篠両人也、
 数寄者ト云ハ、善法也、
茶の湯者ノ数寄者ハ古今ノ名人ト云、
 珠光并引拙・紹鷗也、 

 茶人たちには昔からランク付があった。道具の良し悪しを見分ける目を持ち、茶の湯も上手、数寄の師匠をして生活している者を茶の湯者。これといった道具も持たず、茶道に志す覚悟、工夫、そして手柄(手並み)、この三つを持っている者を侘数寄。唐物、いわゆる名物を所持、目利きも茶の湯も上手、茶の湯をする上で持っていなくてはならない覚悟、作分、手柄も調い、茶の湯の道に志深い人は名人と云われた。

 つまり、茶の湯者、数寄者、名人と茶人たちは評価したのである。そうすると我々は茶の湯をするのも、数寄者と云う次なるステージを目指しての人生の修行ということになる。人として未熟故に茶の湯をしなくてはならない。

 小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て修行得道する事なり

 小座敷の茶の湯はまず、第一に仏教の教えをもって修行し悟りを開くものである。利休の秘伝書とされる南方録の語るとことである。建物のりっぱさや、食事の珍味を茶の湯の楽しみに思うのは俗世間のことで、家は雨がもらなければよい、食事は飢えぬほどあれば十分である、これが仏の教えであり、茶の湯の本当の心であると説く。

 しかし、現代数寄者というと些か意味合いが異なる。

 おらが茶の湯はそんなものではない。茶の湯は本来趣味である。無論茶の湯に依って世間に様々な好影響を及ぼす事があるかも知らぬ。そんな副産物を眼中に入れるのは既に第二義に堕ちるものである

 茶の湯を修行と説いた古人の教えに真っ向から反旗を翻したのが高橋箒庵であった。彼は新聞記者をへて三井銀行 その後51才で実業界を引退・名物茶器の記録、大正名器鑑、数寄者の記録、東都茶会記を著すなど近代の茶の湯の発展に大きな功績を残した人物である。
 
 「茶の湯は趣味である」と宣言した箒庵をはじめ、明治・大正を生きた実業家たちの茶の湯は有り余る財力を背景に茶道具蒐集に走った。そして、彼らのことを近代数寄者と称した。そこには瀬を踏むこともなく、淵に陥ってしまった茶の湯があった。

2014年8月25日月曜日

茶の湯で哲学する〜花〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「花」。

花は野にあるように

 花を生ける心得としてしばしば引用される利休の言葉だ。野にあるように生けるには花を知らなければならない。『槐記』には次のように述べられている。

 凡そ花を生るには、必ず先づ花の面を知ること第一なり。必しも面を前にせよと云事には非ず。脇を見ても、面を脇へしても、正を第一にして、面を知りて生るは好き也

 花に限らず森羅万象、そのものが持つ真の顔がある。花の顔、正面を知るということは、その花の性格を知るということだ。まずは花と正対して話をする。花に嫌われると生けるのもままならない。

 同じ花を生けるにしても、茶席で生ける花と華道の生け方は異なる。

 近衛殿遠江守殿を振舞被申候とて池坊専好ヲ御呼生花被申付候、扨遠州此花ハと御挨拶ニ、茶湯ノ心かつて不好者ノ入候由被申候

『桜山一有筆記』に述べれている。華道の名人がどんなに素晴らしく生けようとも茶の湯の心知らなければ相応しくない。

『茶道望月記』には次のよう述べる。

立花は随分花の色香の久しくたもつを手柄と習にしたる物也。茶事の花はただ其一盛りなるを賞翫感情とする有り

 茶の湯の花はその一瞬を大切にする。物の哀れと云ってもよいだろう。華道の花は基本的な形式が決まっているが、茶の湯の花は投げ入れの妙と云われるように自由である。決まった形がない。しかし、文字通り投げ入れてしまってはダメだ。自由だからこそ、自然の形に逆らわず、調和を崩さないよう繊細な心で生けなくてはならない。その心は、自然の中での茶会、野点の極意にも通ずるのではないかと思う。南方録に「定法ナキガユエニ 定法、大法アリ」と。

投花は跡のヒカへ専なり。客生は亭主の方へ、生は客のへ。をもく投るは悪しく。投花は織部殿より

 『茶道四祖伝書』によると、投花入は古田織部が始めたとされている。亭主が生ける場合は客の方へ斜めに生ける。客が亭主から花を生けることを所望された場合は、花の向きは亭主の方へ向ける。敬いの気持ちからだ。だから、客は床の間に正体して正面から見るのが礼儀だ。けっして覗き込んだり、斜めから見ることは控えるべきである。

 遠州は花を生ける極意として論語を引用した。

子曰く、質、文に勝てば則ち野なり。文、質に勝てば則ち史なり。文質彬彬として、然る後君子なり

 吉田賢抗の解釈によれば、”質”とは生まれたままの素朴な性質のこと、”文”とは美しい飾りのことで、学問をするに従って後から身につく教養をを云う。”野”とは粗野で田舎びたこと、”史”は知識はあるが誠実さに欠ける人を云う。質と文がいずれも優っても、粗野になったり、誠実さに欠けたりする。

 つまり、自然のあるがままの花の姿(質)に、人の心(文)が加わり両者が調和してはじめて花を生けることが出来る。己の茶の湯に姿があるとすれば、それは花の姿に違いない。続けて、『風雅和歌集の序』の一節を述べる。

 姿たかからむとすれば、その心足らず。言葉こまやかなれば、そのさまいやし。えむなるはたよれすぎ、つよきはなつかしからず。すべてこれをいふにそのことはり、しげき言の葉にては、のべつくしがたしむねをえてみずからさとりなむ

 しかし、姿に囚われ過ぎると、心が足りなくなる。技巧に走り過ぎると、嫌らしくなる。あまりに微笑むような姿は弱々しく、あまりに強すぎるのは親しみがもてない。この道理は、どんな言葉を使っても説明することが難しい。だからこそ自らが悟らなくてはならないのだ。

 『槐記』には花を生ける時の注意点が数々述べられている。

 花を生るる事を今の世には。曾て穿鑿なし、大方の人投入と云は、立華などのように、撓つ歪めるして入るる事でなし。枝の形を其儘に入るるを投入と云と覚へて居るは、大なる心得違ひなり。昔の人の生木生花の形を傷はずと云は、撓ぬこと歪めぬことに非ず。唯其木其草、其花其枝によりて、夫々に生れ付たる質のやうに、生付を傷はぬようにせよと云事なり

 花を生るに、花をむしると云うことあり。むしるにて、枝も花も格別に好くも悪くもなることなり

 茶道の言葉を素直にそのまま解釈してはいけないことが多い。”投げ入れ”もその一つだ。切ったばかりの枝や花をそのまま生けることが投げ入れではない。時には枝を撓めたり、余分な花や葉を落とす必要もある。それは一輪の花を生かすためただ。自然にある姿を常に頭に入れて生けることが大切なのだ。

 僅か数本のことではあるが、花を生けることは難しい。亭主の器量が試されるわけだから。花を生けるのも、歌を詠む時と同じ心持ちで生けなくてはならない。技巧だけにたよってはいけない。自分自身で悟ること、”心”が大切なのだ。その人の心が花の姿に現れる。

2014年8月23日土曜日

茶の湯で哲学する〜政道〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「政道」。

 茶の湯の歴史を振り返ると、信長以来政権交代と無縁ではなかった。政権交代により茶道も顔を変え、性格を変えてきた。

 信長の時代、秀吉の時代、家康以降の江戸時代、明治維新薩長藩閥の時代、明治23年第1回衆議院議員総選挙が実施された以降の政党内閣の時代、5・15事件以降軍閥が台頭した大政翼賛会の時代、戦後、昭和26年サンフランシスコ講和条約以降保守政治の時代、そして現代。茶道は時の動きに敏感であり、時の政権は茶道を利用してきた。

 茶の湯を最初に政治に利用した人物は織田信長である。畿内を平定した信長は、「名物狩り」により名物茶器を集め、家臣が勝手に茶の湯をすることを禁じ、茶会を開く許可や茶器を与えることを恩賞とするようになる。後の世に「名器は、一国一城にも値する」と云わしめた。茶の湯御政道である。

 細川幽斎の 「武士の知らぬは恥ぞ馬茶の湯 はぢより他に恥はなきもの」とは、ハードパワーとソフトパワーの両輪の重要性を述べたもとも云える。どちらが欠けても国は治まらない。闘わずして、己の価値を持って相手を魅了する力がソフトパワーである。茶の湯で云う「おもてなし」という言葉に置き換えることも出来るだろう。

 その精神を引き継いだのが江戸時代であった。武士、政治家にとって茶道の教養は必須であった。それは交際儀礼としては勿論、儒学思想を背景に、自らを律し、国を治める、家を守るための、武士としていきてゆくための哲学でもあったのだ。

 今から150年程前、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が水戸・薩摩の浪士たちによって暗殺された。有名な桜田門外の変だ。直弼の政治家としての評価は分かれるところだろう。安政の大獄のイメージがあまりに強く、厳しい評価も多い。しかし、彼は幕末最後の大茶人であり、真の政治家であった。直弼は今の政治家に一番欠けている覚悟力、対応力、決断力、そして理念を持ち続けた。それは部屋住みの頃から嗜んだ茶道が強く影響していると思われる。

 茶事は己が所業を助る道なるか故に、士農工商ともにまなびて益有る

 井伊直弼の『茶道壁書』の第一条に記された一文である。その奥書には、安政五年と書かれている。安政の大獄の始まった年、直弼が暗殺される2年前だ。その心は、直弼が部屋住みの頃に書かれたと思われる『茶道と政道』にあるようだ。

 上は己が身にたれりとする故に下をあわれみ、下は己が身にたれりとする故に上をうやまひたすく、富者たれりとする故にほどこし、貧者たれりとする故にあながちもとめず、是、知足の行はるる所

 国家あまねく喫茶の法行はるるときは、ここにしるすがごとく、上下ともに己が身を守り楽しんで、憂るものなく、仇するものもなからん

 己の不遇を嘆くことなく、足るを知ることこそ、太平静謐なる世を送る術であった。直弼にとって茶の湯は封建社会を生きるための智恵の源であり、「士農工商ともにまなびて益有る事」も、為政者として万民の不平不満を、政策で統制、弾圧するよりも、茶の湯の思想が広く行き渡っていればと云う懺悔と願いが込められていたのかもしれない。

 一方、「喫茶は独道の法にして、政道などに預るべきの器にあらず」とも述べている。しかし、その心は「上に喫茶嗜む時は其国に幸し、下に喫茶を嗜む時は、一人は一人、二人は二人など、政治の無事、助となるべし」とある。つまり、国中上下とも茶の道に入ればその国は平和が訪れるというのである。

 直弼の真の姿は平和主義者であった。士農工商、国中上下とも茶の道に入ればその国は平和が訪れると信じた井伊直弼。彼の理想は、権力ではなく文化力で国を治めようとしたのだ。若い頃に茶の湯を志してから暗殺されるまで変わらぬ信念であった。

 茶の湯を社会にどのように生かすかは、使う人の理念に負うところが多い。生かすも殺すも使う人によるのだ。直弼が暗殺されなければ、信長以来の茶湯御政道の復活はあったのか?信長と直弼の違いは、茶の湯の規制強化と門戸解放であった。

 現代の価値観から見ると愚民化戦略ではあるが、動乱を予兆させる世の中、幕藩体制を維持するための平和的手段が茶の湯の思想であったのだろう。国民皆茶を目指した直弼であったが、茶の湯は武家政治の終焉と共に明治維新以降、一気に衰退の道を辿ることになる。

 直弼はその後の茶道の行く末を見据えてか、忠告も忘れていない。

 (茶道は)快楽する道にて、行やすき道にはあれども、法中に邪道を説く者ありて、よく人を導く故にその説を面白しと、是に汲みする類も多く成行事、是は喫茶の不行ざるよりも、又、格別に嘆かわしきの至極なれ

 間違った茶道は世を滅ぼす、、、。

2014年8月22日金曜日

茶の湯で哲学する〜能〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「能」。

 珠光の物語とて、月も雲間のなきは嫌にて候。これ面白く候

室町後期の能役者、金春禅鳳の言葉だ。村田珠光が、月は満月で煌々と輝いているよりも、雲がかかって見え隠れしている方が好きだと言ったのに共感し、それを「面白い」と云った。茶の湯と能の共通の美意識として取り上げられるエピソードの一つだ。

「茶の湯」と「能」。この二つの芸能の歴史を振り返ると、共通の道を辿ってきたことがわかる。

 世阿弥の「風姿花伝」によると江戸時代までは「能」は「猿楽」と呼ばれた。その起源を次のように述べている。

 推古天皇の御宇に聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつては天下安全のため、かつは諸人快楽のため 六十六番の遊宴をなして申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮つてこの遊びの媒とせり

 推古天皇の時代、聖徳太子が秦河勝に命じて、ひとつは天下太平を祈るため、もうひとつは世の人の娯楽のため、66番の芸を演じさせられ、申楽となづけたのが始めとされた。

 一方、茶の湯は山上宗二記に「夫茶の湯の起は、普光院殿(六代義教)、鹿苑院殿(三代義満)の御代より唐物絵賛等歴々集り畢」とある。ちょうど申楽が武家政権に認められ、次第に洗練されていく時代と重なっている。

 さて、世阿弥も昔から世に知られた人物と思われがちであるが、あくまでも伝説上の人物に過ぎなかった。その姿があからさまになったのは近代に入ってからだ。彼の著書が発見されたのが明治41年、今から100年ほど前にすぎない。幕末の大茶人井伊直弼が世に知られるようになったのも明治45年。「一期一会」「独座観念」の彼の茶道理念が世に知られるようになる。偏に茶道も能も武家文化の中枢であったがことがその背景にあった

 能は京都・奈良に多数存在した大和猿楽と呼ばれた 民衆の演劇集団の一つに過ぎなかったが、足利義満によって見出され武家政権に迎えられる。茶の湯も伝説によると、村田珠光が能阿弥の推選によって義政の東山山荘に召され,その茶道師範となり,珠光流茶の湯の極意を相伝したといわれている。

 能と茶の湯は庶民の一芸能に過ぎなかったものが、室町時代、足利将軍家によって社会的地位を上げ、江戸時代には武家の嗜みとして礼法として、身につけなくてはならない教養として広まった。そして、各藩は競って能楽師や茶頭を召抱えるなどして、藩主自らも研鑽に励んだのだ。茶会では茶道と能のコラボレーションも頻繁に行われた。茶会の後、拍子や能などの芸能が行われたのだ。

 武家にとっての能も茶の湯もその尤も配慮しなければならない対象は貴人である。

 申楽は貴人の御出を本とすれば

 貴人の御意に叶えるまでなれば、これ、肝要なり

と能も貴人の心に叶った演じ方をするのが大切であった。茶の湯もしかり。貴人をどのようにお迎えするかが茶の湯の礼法の一つとなったのだ。名物茶器のほとんどが将軍家、大名家のモノとなり、江戸時代の茶の湯は武家のリードのもと発展する。町人の茶の湯は家元制を背景に、稽古という新たな分野が確立され遊芸化の道へと進んでいった。

 能も武家の式楽となったことで、一般庶民とは縁遠いものになった。庶民たちの楽しみも、一年に数回しかおこなわれない勧進能や町入能など限られた機会となった。

 しかし、謡本の普及により全国各地に愛好者が増え、謡曲のさわりの一節を謡う「小謡」の流行により小謡本が刊行されたり、能の一部を装束をつけずに舞う「仕舞」の稽古のため仕舞謡の本も作られた。町人の間でも能も遊芸化していった。
 
 江戸幕府が滅び、明治維新となると大名から俸禄を貰っていた茶人、能楽師たちは生活の糧を失い、困窮を極める時代を迎える。その結果、多くの能役者たちが代々の技芸を捨てることとなり、能は壊滅的な打撃を受けた。

 明治維新以降、武家文化が否定される中根絶しなかったのは、庶民の間で茶の湯も稽古礼儀作法として、能も小謡が教養として学ばれ、その火が絶えなかったことが、その復興に繋がったものと思われる。

 このように武家社会を背景に茶の湯と能の密接な関係は、茶道具の銘からもみてとれる。高砂 翁 飛鳥川 俊寛 桜川 尾上 隅田川 竹生島 野々宮 羽衣等々、幽玄の世界を茶の湯に持ち込んだ。

  歌は茶の湯の根底をなすもので、和歌なくしては茶の湯は成り立たない。能も和歌は特別であった。

 まず、この道至らんと思はん者は非道を行すべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もっともこれを用ふべし

 つまり、「申楽の道でりっぱな役者になろうと思う者は、本職以外の道に手を出してはいけない。もっとも歌道だけは例外で、申楽に芸術性をもたせる手段であるから、しっかり勉強するのように」と述べている。

 茶の湯の世界でも武野紹鴎が三条西実隆から藤原定家の『詠歌大概の序』の講義を受け茶道の極意を悟り、「創意工夫」や「作為」の心の大切さを説いた。和歌が茶の湯に芸術性、人間性豊なものにしたのだ。

 茶の湯にも能にも同じ言霊が流れていた。

2014年8月21日木曜日

茶の湯で哲学する〜キリスト教〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「キリスト教」。
 
 日本でキリスト教を広めたフロイスの『日本史』に茶の湯との出会いが書かれている。

 上流の日本人は、彼らが大いに好意を示そうとする客があるときには、別れ際に、彼らの親しみを示すしるしとして、彼らがもっている宝を見せることが習慣になっています。それは皆必要な道具が揃った器で、彼らはそれから一定の、ひいて粉末にした葉を飲みますが、それは茶というもので、飲み慣れた者には味がよいばかりでなく、健康を増します。

 さらに、茶室に通された感動を次のように記している。

 室の片側には習わしどおりに一種の戸棚があり、そのすぐ傍に黒土で作った炉があり、周囲一ワラで珍しいものです。なぜかというと、それはまっ黒い粘土で出来ているのに、まるで澄み切った鏡のように光っているからです。その上に好い形をした鉄釜が、たいそうな見場の好い三脚にかかっていました。赤々と燃え炭火がその上に置いてある灰は磨り潰してよく篩った卵の殻からできているように見受けました。何から何まで皆清潔で、よく整っていて、言葉ではそれを説明することができなきくらいです。

 ザビエル来日以来、彼らのキリスト教布教の一つの指針が、日本の文化、思想を尊重し、同化をはかることにあった。日本の古き伝統を破壊することなくキリスト教の戒律、習慣などをそれになるべく順応させようとしたのだ。

 フロイスが眼を見張った漆で塗られた土風炉、端正に作られた灰。そして、清潔さ。清潔、清浄こそが茶の湯の原点でもあった。フロイスの鋭い茶の湯の観察眼は、日本人、日本文化に尊敬の念を抱いていたからに他ならない。

 その結果が公家、大名、庶民に到るまで65万人という信徒数を数えるに至った。現在のカトリックの信徒数が45万であることを考えると、当時のキリスト教がいかに日本人の心を捉えたのかがわかる。

 大名・武士たちがその原動力となった。「御大切」。キリスト教の愛を表す言葉だ。16世紀、宣教師たちはキリスト教を広めるために「たいせつ」という言葉を使った。見返りを求めない無償の愛は、武士道にも通ずるところがあったのだろう。あくまでも仕えることが使命の武士にとって、「御大切」と云う日本語は下剋上・戦乱の時代にあって彼らの心に響いたのかもしれない。

 さて、キリシタン茶人の存在、茶道具や燈籠等に取り入れられた意匠、茶道とミサの所作の類似性から、茶道はキリスト教の影響を受けているという説がある。

 しかし、キリスト教伝来の頃にはすでに茶の湯は流行の兆しを見せていた。「茶の湯は日本ではきわめて一般に行なわれ、不可欠のものであって、我等の修院においても欠かすことができないものである」と日本人の中に溶け込むためには、当時の交際儀礼としての茶の湯の重要性を認めた。そして、教会内に茶室が造ったのだ。とくにヴァリニャーノはその手引きまで与えていた。

 キリストの教えを広める一助として、茶の湯を利用したのだ。そういう意味では茶の湯とキリスト教は関係があると云えるが、ミサの所作を点前に取り入れたという説等は、世界中の聖なる儀式の類似性を見れば当然のことであり、日本にも清めの儀式は神代の時代から存在するのだ。

 利休の創意によって始められたと伝えられる濃茶の回し飲み。利休がミサにおけるカリスの所作に触発されて取り入れたとの説もある。”回し飲み”は酒を代表するように古来から日本人の慣習にあったものである。中世には一揆に参加する民衆たちが団結をはかるため起請文を灰にして神水に溶かし回し飲んだという”一味神水”と云う儀式もあらわれた。初期の頃に伝来した高麗茶碗が大ぶりなものが多いことからみても、一座建立を旨とする茶の湯に取り入れられるのは必然であったと思われる。

 キリシタン茶人の存在が江戸時代以前の茶の湯の性格を知る一つの手がかりとなる。宣教師たちが激しく攻撃した既存の仏教、茶の湯の思想の根源が禅であったならば、布教のために茶会を利用しようとは思わなかっただろう。

 高山右近は信仰のため大名の座も捨て去り、イエスに一生を捧げた。「喫茶に禅道を主とするは、紫野の一休禅師より事起れり」で始まる『禅茶録』。茶道が禅道を主とするならば、キリシタン茶人は最初から自己矛盾の中で生きていたわけだ。しかし、右近は大名を捨てても、キリスト教も茶道も捨てなかった。

 茶禅一味という思想は茶道の根幹を成すものであるが、その思想が定着するのは実は江戸時代に入ってからである。小堀遠州が春屋禅師の書を好んで掛けたことから、沢庵禅師や江月禅師など大徳寺の僧侶の書を床の間を飾ることが流行する。『南方録』の「掛物ほど第一の道具はなし。客、亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也。墨蹟を第一とする」と云う考えは、現代の茶道にも大きな影響を与えた。

 一方異文化同士はお互い刺激を与える。オスチヤを入れる聖餅箱に蒔絵を用いたり、調度品をはじめ彼らの好みのモノを職人に作らせることによって、南蛮の意匠、思想が取り入れられ、東西文化の融合の結晶として新たな工芸品が生まれた。それらが茶人たちに影響を与えたことは否定しない。


 宗湛日記を読むと、高山右近の茶会の様子を垣間見ることが出来る。

二畳敷、床無。道籠に肩衝とせと茶碗と置双て、脇に柄杓立て懸け、つり棚には引切一つ、壁の方に。せと水指、めんつう、風炉なり。茶の後に、つり棚に肩衝を上て置、亭仰せられるには、遠国なれば、また会を仕るべく事難有候ほどに、上げて今ちと御目懸るべきと候なりと雑談なり

右近はこの頃、キリシタン禁教の中客分となっていた前田利家に従い名護屋に従軍していた。茶室は床無。掛物は掛けなかった。

2014年8月20日水曜日

茶の湯で哲学する〜色〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「色」。

 20年ほど前に小堀遠州350年遠忌を記念して「数寄大名の美学 綺麗さび展が全国各地で開催された。その中で茶の湯三代宗匠、千利休、古田織部、小堀遠州の茶風を色の違いで表現した。それが利休の黒、織部の緑、遠州の白である。この色のイメージはそれぞれが好んだ焼物に由来する。

 利休の黒は楽焼。楽焼に代表される黒樂茶碗、赤樂茶碗を造ったのが長次郎であった。その独創的な造形には千利休の侘の思想が濃厚に反映されていると云われる。黒は暗黒を意味し、すべてを飲み込んでしまう力強さを感じる。黒に魅了された茶人は多い。

 織部の緑はいわゆる織部焼。釉薬の色により、織部黒・黒織部、青織部、赤織部、志野織部などに分類される。その中でも緑色の青織部が最も知られている。しかし、茶碗のほとんどは織部黒・黒織部であり、青織部のほとんどが食器類だ。織部焼は当初からの名称ではなかった。謀反人故か。「セト茶碗 ヒツミ候也 ヘウゲモノ也」と驚きを持って世に登場した織部の茶碗。その名が焼物の名となるのは死後50年経た寛文年間頃からであった。すでに江戸時代から青い焼物は織部という認識があったようだ。青は生命の色であり、人々に癒しを与える。青は万人を惹きつける。織部焼が好かれる所以だ。

 利休の黒、織部の青(緑)に対して遠州は白に象徴される。水仙を好んで生け、遠州木槿と名付けられたその花の色も真っ白だ。一方、遠州の道具はもちろん白も含まれるが、その好みは多彩だ。白は光であり全てのモノを明るく照らす。「崇高」「気品」「洗練」「清浄」など『綺麗寂び』をイメージさせる色なのだ。

 色は色相をあらわすだけでなく、宗教的意味合いも強い。さらに、色は両義性を持っている。また、現代と古代の色の認識も異なる。

 古代の色彩名「赤」「黒」「白」「青」がある。「赤」は独立して使われるのではなく、「黒」と一対になって使われてきたそうだ。それが、「明るい」が「あか」暗いが「くろ」になってきた。

 「白」は神秘的な色の表現であり。「赤」「黒」は光の明暗度を示すもの、明るい暗いといった。「青」は、色を持つものをすべてを表現したものだ。

 白は光の色ということから世界的に崇高な色として尊ばれた。しかし、白は悲しみの色でもあった。死に装束とは、故人に対して施される衣装のことである。白を基調とすることから白装束とも称される。

 白に関してはもうひとつ素という意味、自然そのものの色という意味だ。因幡の白兎は白い兎ではなく、素の色、つまり茶色の兎であった。

 抹茶も利休時代のお茶を白茶と云った。もちろん中国茶で云う白茶とはまったく違う。これも見た目ではなく自然の色、茶の葉そのものの色といった意味に近いのだろう。茶色というのは、平家物語にも出てくるそうだが、茶で染めた色だ。当時、庶民が飲んでいたお茶は番茶(晩茶)だったと思われる。これも茶系だ。それに対する自然の茶葉の色、白茶ということだろう。さらに織部は青茶を好んだといわれる。素の茶葉の色がさらに変化した色ととらえた方が納得できる。
 
 16世紀に来日したイエズス会の司祭ヴァリニャーノは「我等と嗜好は反対であり、我等がもっとも好むものを彼等は一般に嫌悪し軽蔑する。反対に彼等が非常に珍重するものを我等は口にすることができない。同様に我等が美しいと思うもの、我等の眼によく見える色彩を一般に彼等には価値がない。我等が明るく陽気と思う白色を、彼等は喪と悲しみを表すものと考え、我等が喪中に身につける黒色と紫色を彼等は喜ぶ」と述べている。

 喜ぶという訳が適切か否かは検証する知識を持ち得ないが、むしろ尊ぶという方が当時の日本人の考えに近いだろう。古来、黒や紫は高貴な人が着る衣装の色であった。畏敬の念をもっていたのだ。力の象徴でもあった。利休は「黒は古き心」と云い、秀吉は逆に嫌ったと伝えられる。これはたんなる美意識云々の違いではなく、むしろ秀吉は黒を自在に操る力を恐れた云うべきだろう。

 紫は、狂喜、下品、高貴、病気、高級感、正反対の意味を持つ。ヨーロッパでは青みがかった紫は、葬儀や憂鬱さと結びつき決して麗しい色ではない。

 紫に染めるのは染めるのは大変手間がかかり、手に入れることが難しかったことから権力の象徴的な色と結び付けられた。日本でも紫草の根が染料として使われたが、収穫量の少なさや染めるのにこ手間がかかるため、位の高い人や僧の衣の色に用いられた。

 また、紫草は薬としても使用された。病人にとっては高価ではあるものの必要不可欠の薬であった。歌舞伎や時代劇など紫の鉢巻を巻いている人は病気や病弱の印で、当時は飲むだけでなく、染めたものを幹部にまきつけるだけで効果があると思われいた。

 袱紗の色は、茶道でも一般の袱紗も同様慶弔どちらでも使えるのは紫といことになっている。

 利休が黒好みであったことはよく知られている。とくに、天正十八年(一五九〇)九月十日、博多の商人神屋宗湛と大徳寺の珠首座を招いての茶会で、黒茶碗を使い、これを片付けて瀬戸茶碗に置換え、「黒キニ茶タテ候事、上様御キライ候ホトニ、此分ニ仕候」といった話(宗湛日記)は有名である。上様つまり秀吉と利休との美意識の対立を示す挿話として、また間もなくやってくる利休自刃の悲劇を予測させるものとして、利休を語るときにはしばしばこの話がとりあげられている。

 利休の茶はタブーへの挑戦でもあると何度か述べてきた。利休の好んだ色からもそれを垣間見ることが出来る。黒楽、赤楽もタブーの色であったのだ。死の穢、血の穢である。秀吉は聖なる空間、茶室に穢の色を持ち込んだことに嫌悪感を抱いたのかもしれない。

2014年8月19日火曜日

茶の湯で哲学する〜江戸〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「江戸」。

 江戸と言うと、様々な意味が含まれている。
 まずは時代としての江戸。徳川家康が1603年江戸に幕府を開き、徳川慶喜が大政奉還をする1867年までの武家の時代を指す。。江戸時代はおよそ260年。この時代は軍事政権でありながら世界史的にみても平和が長く続いた時代でもあった。

 また、場所としての江戸を指す場合もある。江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる武家の町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した庶民の町(下町)に大別される。今日でもその面影を残している地域を多い。

 さらにアイデンティティ(自分が自分である証)としての江戸もある。「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」。「江戸っ子」と称される独自の住民意識が生まれてくるのは、200年近く経った江戸時代後半のことである。当初は家康が連れてきた人たちが造りあげた街だ。江戸っ子も野暮という田舎者や地方から出てきた人に対する言葉でもある。江戸は将軍様のお膝元、全国から人々が流入してくる。江戸の街は自分たちの先祖が造ったという、新規住民に対するアイデンティの一つでもあるのだ。

 このように江戸一つをとっても人によってはイメージすることが異なるが、現代の文化はこの江戸時代の文化を継承していることが多い。茶の湯も江戸時代に完成した文化の一つともいえる。

 中野三敏先生の「江戸文化再考」では江戸文化を雅と俗にわけて考えた。「雅」というのは”みやび”とも、”が”ともいう。武家文化と捉えることが出来る。そして「俗」、これは低俗という意味ではない。庶民の文化、町衆文化のことをさす。それを茶の湯にあてはめて考えていきたい。

 江戸時代の茶の湯を興隆期、成熟期、衰退期の三段階に分けて考えてみる。文化が成熟している状態とは、幹がしっかりしていて枝葉が広く多く分かれている。様々な選択肢があるのが文化の成熟度を測るものだ。選択肢が一つでは文化が成熟しているとは言えないのだ。

 17世紀は幕藩体制が確立し、朱子学の思想に影響を受けた茶の湯は洗練され完成されてゆく。現在の茶禅一味の思想もこの時期に生まれたものだと、先の哲学するでも述べた通りだ。天下の名物は尽く武家の手元に集められた。将軍家の茶の湯として古田織部、小堀遠州、片桐石州等が茶道指南役として茶の湯をリードする。現代の茶の湯が原型が確立した時代である。

 一方町衆、千宗旦や三人の息子たち(三千家の祖)、千家流の弟子たちはある者は各藩に仕官、ある者は多数の弟子や書物を通して利休の教えを広めようとした。これが流儀の確立の道となる。茶の湯文化の興隆期であった。

 江戸中期は茶の湯にとっても成熟期だ。遠州、石州によって確立された武家の茶法は式正とされ受け継がれた。特に石州の茶風は各派に分かれ大名家の茶として各藩に伝播する。寛政の改革の松平定信、姫路の風流大名酒井宗雅、そして出雲の松平不昧はこれまでの伝来の茶道具を分類するなど茶道への功績は計り知れない。遠州流でも幕府の中枢まで登りつめた小堀宗香、その子宗友は「喫茶式」「数寄記録」を編纂、遠州伝来の茶法をまとめあげた。まさに武家の 茶道文化は成熟期を迎えたのだ。

 一方庶民も都市部を中心に茶の湯を学ぶ人が増えてくる。茶の湯の大衆化が始まった。大衆に支持されるには分り易く遊びの要素が取り入れられ「遊芸」とも称された。免許皆伝であった茶の湯も江戸時代の身分制度の元、一子相伝の世界へとなった。次第に家元制度が確立していき権威化してゆく。作法もこまかく規定され、表千家如心斎天然宗左、裏千家一灯宗室、官休庵一翁宗守やを川上不白などの高弟が中心となり七事式が誕生した。大勢が一度に稽古が出来るよう工夫されたゲーム形式の稽古法である。庶民の茶の湯もまた成熟期を迎えていた。

 芸術の分野でも尾形光琳、宗達、その後の酒井抱一など江戸の美を代表する芸術家を生み出す。茶の湯の歴史では江戸前期よりも影が薄いが、この時代に生きていたならば、茶の湯者にとって一番刺激的で面白い時代であったに違いない。 

 18世紀後半から19世紀にかけては茶の湯の遊芸化がさらに進む。それは幕藩体制の揺らぎとも無関係ではない。茶の湯文化も衰退期を迎える。それを証明するかのように各階層からも茶の湯批判が起こる。しかし、それを正す力は誰も持っていなかった。儒者、文人、国学者をはじめ、家元自身も批判する。幕末最後の大茶人井伊直弼も「快楽する道にて、行やすき道にはあれども、法中に邪道を 説く者ありて、よく人を導く故にその説を面白しと、是に汲みする 類も多く成行事、是は喫茶の不行ざるよりも、又、格別に嘆かわし きの至極なれ」と遊芸化の進んだ邪道な茶道が流行する当世を嘆いた。

 江戸の武家文化は、習俗的であった茶の湯を雅の文化を加え一気に完成させた。それを世の人は「綺麗さび」と称した。

 雅とは品格である。俗とは人間味である。江戸時代の茶の湯は品格ある茶から次第に俗なるもの人間味が加わってくる。それが行き過ぎると遊芸化が一段と進む。

 現代でもなお、茶の湯は雅と俗の間に揺れている。

2014年8月18日月曜日

茶の湯で哲学する〜竹〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「竹」です。

 竹は茶の湯にとってはなくてはならない素材の一つだ。例えば、茶杓、花入、茶器、蓋置などの表道具、茶筅、柄杓の水屋道具、茶の湯の舞台になる茶室、そして雪駄にいたるまで、竹は茶の湯の源流を探るにあたっての深いテーマである。

 竹と日本人の関係は、縄文時代まで遡ることが出来る。縄文晩期(約3000年ほど前)の青森県内の亀ヶ岡遺跡や是川遺跡では、竹で編んだ籃胎漆器が発見された。

 神話の世界でも竹は特別な役割をに担っていた。イザナギがイザナミを探しに黄泉国を訪れたとき、左の角髪(みずら)から櫛を抜き、それに火を灯した。そしてそこから逃げ出すときには、右の角髪の櫛を追ってくるヨモツシコメの方へ投げつけた。するとそこにタカンナ(タケノコの古名)が生え、それを黄泉醜女が食べている間にイザナギは逃げ延びた。

 スサノヲも櫛の呪力でヤマタノオロチに打ち勝った。神話の世界だけでなく、櫛が古代人にとってどれほどの聖なる力を持っいたかは、宮崎県で鳥居龍蔵によって発掘された、天下(あもり)古墳や浄土寺山古墳の副葬品が証明している。遺体には数十本の竹櫛が刺してあったのだ。

 その他、コノハナサクヤヒメが竹で作った刀でへその緒を切きり、捨てた竹の刀がたちまち竹林になって産室になったという話等々、竹にまつわる話は枚挙にいとまがない。

 アメノウズメは天照大神のために手に笹を持って踊った。現在でも能や歌舞伎そして神楽の舞人が手にするものを採物(とりもの)と言うが、それは笹であり依り代でもある。

木にもあらず  草にもあらぬ  竹のよの  端に我が身は  なりぬべらなり

 竹の神秘性を語るのに頻繁に取り上げられる歌だ。木でもなく草でもない竹の、さらにその「よ」の空間のように、世の半端ものにこの身はなってしまったようだ、という意である。

 竹は、その驚異的な生長力や、不死と見紛うほどの生命力、節間が作る不思議な空洞などから聖なる植物とされてきた。120年に一度と言われる一斉開花もその神秘性を高めた。

 竹は呪力を持つ。この観念は、竹や笹が生育する地域が共有する民俗文化だ。神降ろしの結界を作るとき、生竹を立てて注連縄で囲む。神社などの竹垣も、境界を聖別するものである。竹で編んだ籠も呪具であった。籠目は「鬼の目」とも呼ばれるが、実は邪霊の侵入を拒む聖なる目である。逆もあり、時代劇などで設えられる刑場での竹囲みや罪人を入れる籠は、邪を封じ込める呪法であった。

 竹は呪力を持つ故に誰もが扱えるものではなかった。特別な能力が必要とされたのだ。それ故「竹取物語」の逸話等、竹を扱う人々は古来から差別との闘いでもあったのだ。

 その竹を取り入れたのは侘び茶の時代だ。聖なる茶室には呪力を持つ竹は本来持ち込めない。タブーである。タブーへの挑戦が侘び茶の特質でもあるのだ。

 茶人の魂とされる茶杓も、茶人自ら竹藪に行って竹を切り、削り作ったわけではない。下削りの職人がいて原型を作った。竹の花入も同様だ。作った人が作人ではない。設計者が作人となるのだ。

 花入で一番大切なことは寸法である。「墨をする」と云って、寸法を決めることに意味があり、墨を入れていった。それ故、竹の姿を見極める力、目利きこそが重要になってくる。昔は秘伝中の秘伝であり、「墨寸法之儀御伝授被成下辱仕合奉存候如御差図他見他言不仕花入墨之儀云々」と云うように誓詞を入れた。
 
 竹は呪力を持つと考えられていた故に、竹を扱う職人の手を加えてはじめて茶人が手にすることが出来た。

 竹は侘び茶の謎を解く鍵でもあるのだ。

2014年8月17日日曜日

茶の湯で哲学する〜釜〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「釜」。

 茶会で最初から最後まで茶席に存在する茶道具は釜である。

「それ茶の湯の道とても外にはなく、君父に忠孝を尽くし、家々の生業を懈怠せず」で始まる小堀遠州の書き捨ての文の最後の一文は「松風の音絶ゆることなかれ」と締めくくられている。松風とは釜の湯の煮え立つ音のことを云う。釜の煮え湯が落ちてしまっては茶の湯は成り立たないのだ。

 豊臣秀吉が開催した北野大茶の湯。天正15年10月1日(1587年11月1日)に京都北野天満宮境内において秀吉が主催した歴史上最大規模の茶会だ。その茶会を開催するに当たって、京都の五条などに高札が掲げられた。

若党、町人、百姓已下によらず、釜一、釣瓶一、呑み物一、茶焦がしにても苦しからず候

 茶がないものはこがしでも良いと書いてある。茶の湯でありながら抹茶は絶対ではないのだ。茶高札は誰が書いたのかはわからないが、秀吉の意向を十分に配慮したことだけは確かだ。そこには、釜一つと書いてある。抹茶はなくても釜が無くては茶の湯は出来ない。

 抹茶は文献上では800年ほど前に栄西禅師がもたらしたことになっている。釜は抹茶伝来以前よりあった。その用途は食物を炊く、煮る、そして湯をわかすという、炊事用の鍋釜である。

 茶の湯に使われる釜は伝承によると土御門天皇の時代、建仁、元久の頃(1201〜1206)に入って作られるようになった。足利義政の東山時代を迎え茶の湯が盛んになるにつれて輸入品や特定の産地の釜では需要をみたすことができなくなり、仏像や仏具、一般の鋳造品を造っていた鋳物師たちが釜も作るようになった。唐銅を主とする中国の釜と異なり、日本の釜は鉄を主としてすぐれた茶の湯の釜が鋳造されるようになる。

 釜は芦屋、天明などの古作のものや、京作釜など名人の作がもてはやされた。
 
 芦屋釜は釜の王様と云っていいだろう。芦屋というと一般の人は兵庫県の芦屋をイメージするが、筑前(今の福岡県)の芦屋のことだ。芦屋釜の起源は土御門天皇の時代、建仁、時代に京都栂尾の明恵上人が初めて芦屋で釜を造らせたと伝えられている。その最初のものが羽付の真形で、これを祖釜といって最上の釜とされた。

 この筑前芦屋の釜大工たちは、16世紀半ば、当時筑前を支配していた大内氏が滅んだ後、各地に離散して、伊勢、播磨、越前、石見、伊予などに移り住んで釜を製作するようになった。そしてそれぞれの地名を頭に付けて、越前芦屋、伊勢芦屋、伊予芦屋、肥前芦屋、播磨芦屋、石見芦屋などと云われるようになった。

 芦屋釜の特徴は、一般的には薄作で、形と地紋がすぐれている。口から肩にかけての曲線と、肩から胴への量感に力強さと優雅さが見える。古いものは肩のはらない丸い形のものが多く、時代が下がるにつれて肩が張ってくる。文様も写実的な装飾地紋に精巧で華麗なものが多い。釜肌は絹ようような美しい肌あいを匂わせている。

 初期の鐶付は胴の中央ぐらいについている。次第にやや上部の方についけられるようになった。それは炉の普及とは無関係ではない。釜を炉壇、つまり炉中に据えた時、鐶付が中央にあっては炉壇に触れたり、あるいは釜鐶を上手く入れることが出来ない。古い釜ほど鐶付が中央部分にあるということだ。

 もう一つ古い釜で天命釜という釜がある。これは栃木県佐野市のことで、古くは佐野天命と呼ばれていた。また、神奈川県小田原でも天命風の釜が造られ、古くからこちらの方は天に猫をあてて天猫と呼ばれる。天命に比べると時代が下がる。

 天命釜の特徴は、地紋があるものが少なく、その肌合いにある。鐶付は、芦屋には鬼面が多いが、天命釜は遠山、貝類、蕨などが多いのが特徴。また、天命には共蓋が多く、唐胴蓋は少ない。

 このように釜は真形、面取、四方、霰、累座などその形姿や地紋、鐶付や肌合いなどが賞翫の対象になることが多い。しかし、通常、釜の胴の部分は炉中に隠れていることが多く、常に客の眼が注がれるのは、蓋である。蓋が悪いとせっかくの名品も台無しになってしまうのだ。

 それ故、良い釜というのは良い蓋がついている。蓋の善し悪しは、道具の格を左右する。釜の蓋を誉めることは目利きの証明であり、亭主冥利につきるものとなる。ところが、最初からその釜のために作られた共蓋がついていることは稀だ。多くが後から合わせたものである。

 釜は鉄で出来ているので、念入りに手入れをしたりしても、錆びたり、底が抜けたりして、蓋だけ残ることがあった。茶人は、良い出来の釜の蓋を出来るだけを集めて、お気に入りの釜と合わせる。ピタリとくると一方ならぬ喜びであったに違いない。利休の四方釜は蓋に合わせて釜を作ったことでも有名である。

 茶の湯は囲炉裏、火の神を囲んで執り行なわれる儀式である。茶の湯が茶道と称されるようになり、茶から湯が無くなってしまったが、湯がなくては茶道にはならない。釜が最初から最後まで存在する理由がそこにある。松風の音を絶やしてはいけないのだ。

2014年8月16日土曜日

茶の湯で哲学する〜アート〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「アート」。

 アート、美術、芸術は洋の東西を問わず、神との関係を抜きには語ることが出来ない。ヨーロッパの教会や美術館に足を運んでも、18世紀までの美術品、建築物は、宗教的知識、とくにキリスト教の知識なくしては、なかなか理解することが出来ない。それは、日本においても芸能と呼ばれる雅楽、和歌、茶道、華道、能、狂言、蹴鞠等々も同じある。

 宗教の影響を強く受けていたヨーロッパのアートもフランス革命によって激変する。その辺りの事情は椹木野衣さんの著書「反アート入門」に詳しい。1789年にフランスで始まった市民革命(ブルジョア革命)によって、ブルボン王朝が崩壊し、第一共和政が樹立される。それまでの特権階級であった王侯貴族達が没落していき、主役が市民となる。また当時の聖職者たちは特権階級に属していたので、キリスト教は徹底的に弾圧され、追放、破壊が繰り返された。

 そこで何が起こったか?アートが神の手から離れていったのだ。政治の主役が神や王侯貴族たちから、市民となった。そうすると、これまでの神話や宗教に根ざしたテーマで描く必要がなくなり、自分の描きたいものを描くようになる。宗教的タガがはずれたのだ。そして、新たなアートが出現する。それがモダンアートであり、現代アートに引き継がれる。

 日本でも同じことが起こった。明治維新だ。明治維新の中心となったのは地方の下級武士たち。武家文化、仏教文化を否定し文化破壊を行った。大名がパトロンであった能や茶道なども否定された。それは経済的な面だけでなく、思想的にも大きな影響を与えた。江戸時代まで禅宗、儒教の教えの影響を受けていた茶道、武士が生きる上での規範としていた茶道が寸断されていくことになったのだ。つまり、作法、工芸、建築、花、料理等々とそれぞれが独立した形で歩みはじめる。神のタガ、宗教のタガが外れた。

 それは、数寄者の登場によって最高潮を迎える。有り余る財力を背景に言葉は悪いが美術品を買い漁る。宗教的、思想的バックボーンがなくなり、趣味という新たな分野が生まれたのだ。彼らのお陰で茶道具が散逸せず、我々は名品を今なお眼の前にすることが出来る。その功績は計り知れないものがあるが、道具がたんにモノになってしまったことにも留意すべだろう。

 しかし、茶道はそれ以前に、神のタガ、宗教的タガが外れた時期があった。利休の時代である。前回、利休の茶の湯は異質だ、言霊がないと述べた。中世最後の大芸術家でありながら、もっとも中世的なるもの歌心、つまり神の心が見えないのだ。日本の芸能、美術だけでなく、歴代の茶人の中でも異質な存在だ。

 欧米のアートが宗教のタガがはずれ、モダンアートから現代アートへの流れはおよそ200年を要した。しかし、利休が天下一の宗匠として活躍した時期は6年。たった6年で利休の茶は200年のアートシーンを駆け抜けたと云っても過言ではない。利休の異質性はその後の江戸時代の茶の湯にも影響を残した。

 和歌は神との関わり抜きには語れない。神、宗教から離れたところに侘び茶が生まれた。宗教には様々なタブーが存在する。タブーを破ってきたのが利休の侘び茶であり、利休の美でもあるわけだ。(タブーに関しては別項で)

 呪術的意味合いの強かった竹や茶壷を茶室に持ち込む。見立てと称して茶道具に仕立てる。また、床の間に飾るべき茶壷をにじり口に置き茶室への入り口を塞いだ話、花入に花を生けず水ばかり入れて飾る、雨が降った後、床壁にさっと水を打った跡だけが残すなどの数々の茶の湯の逸話はコンテンポラリーアート、サウンドアート、コンセプチュアル・アート、リレーショナルアート、インテリアアート、多文化主義など、まさに現代アートとして評価されていることが、400年以上も前に茶道シーンで既に行われていたのだ。

 利休はタブーを破り、斬新な発想で侘び茶と云う新しい美の体系を創り上げた。16世紀、茶の湯に出会ったヨーロッパ人のみならず、多くの日本人が理解出来なかったのは当然だろう。茶の湯は利休や遠州の後ろ姿を追いかけながら時を待ち、アートは変容を繰り返しながら時代の求めに応えようとしてきた。

 21世紀のアートがこれから歩む物語は楽しみだ。現代美術のこれまでの道程は、400年以上前の茶の湯に既に示唆されていた。そして、今、茶道もアートも同じスタートラインに立っている。これから世界のアートは誰もが経験したことのない未知の世界が待っている。私たちはその時代に生きているのだ。現代のアートは茶道を嗜む者にとっても刺激なのだ。

2014年8月15日金曜日

茶の湯で哲学する〜和歌〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「和歌」。

 村田珠光は大徳寺一休和尚に参禅、茶禅一味の境地を悟り侘び茶を創始した。武野紹鴎は三条西実隆より藤原定家の「詠歌大概の序」の講義を聞いて茶道の極意を悟った。紹鷗は禅と和歌の悟りの境地は同じだと気付いたのだ。

 禅の場合は茶禅一味といったが、和歌の場合は茶歌一味とはいわない。それは茶の湯の始まりから、連歌師が大きく関わってきており最初から和歌の影響を受けて発展してきたからに他ならないことは、連歌の項でも述べさせていただいた。

「詠歌大概の序」は次のように書かれている。

 情以新為先(こころはあたらしきをもってさきとなし)
 求人未詠之心詠之(ひといまだえいぜざるのこころをもとめこれをえいず)
 常観念古歌之景気(つねにこかのけいきをかんねんし)
 可染心(こころをそむべし)

 時代の移り変わりは常のごとくであるので、その次代の変化をいち早く掴むこと、常に情報を張り巡らせていなくてはならない。また、毎年、同じ花をみていてもそれを見る人の心は同じではない。人が詠うことが出来なかった歌の心を探って、新しい心で和歌を詠うべきある。

 お茶で云うと創意工夫や作為の心である

 また、先人たちの古歌の心を汲み取りながら、別の趣で詠わなければならない。これが本歌取りという和歌の技法で、新古今和歌集から多くの歌に取り入れるようになった。

 古歌の心を探るということが、すなわち稽古ということだ。稽古は中国の書経に出てくる言葉だ。古代の書物を読んでそこから聖人の教えなどを学ぶことを云った。

 この稽古の重要性は藤原為家も「詠歌一体」で述べている。

 和歌をよむ事かならず才學によらず、ただ心よりおこれる事と申したれど、稽古なくては上手のおぼえ採りがたし

 和歌をよむことは決して学問から得た知識ではない。ただ心の中から起こることだと先達は申したけれど、稽古、つまり昔の書物から習うことなくしては、名人の評価を得ることは難しい

 和歌は特別な詩的才能に恵まれなくても、稽古によって和歌を詠むことが可能になる。むしろ稽古を重ねて伝統と自己との調和を整えていく。これがお茶の稽古に繋がっている。

 最初に茶席に掛けられた和歌は諸説ある。近衛家煕の言動を綴った「槐記」にも歌掛物の始めが書かれてある。

「八重葎茂れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり」(恵慶法師)

「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山のいでし月かも(阿倍仲麻呂)

 昔は墨跡ばかりかけていたが、ある時利休がある茶人に招待された時に、手水鉢のふきんは掃除されていたけれども露地は草ぼうぼうであった。そこで利休は、その茶人が所持している定家の色紙の歌「八重葎」の歌の心を知って合点したというもの。これが歌掛物の最初としている。

 続けて、利休が秀吉を招待した時に、定家の色紙「天の原」を掛けておいたところ、秀吉はそれまでは茶の湯の掛物は墨跡のみをかけていたのに、歌掛物なので不審に思い利休に尋ねたところ、利休はこの歌の雄大さ、奥ゆかしさは大徳寺の開山である大燈国師や、虚堂禅師の心に匹敵するので用いたと云う説も述べている。

 ちなみに「天の原」の和歌は、今井宗久の茶の湯日記を見ると 1555年10月2日の条に武野紹鴎が今井宗久、山上宗二の二人を招いての茶会に使っている。

 茶の湯の心を語るのに古人は和歌を引用した。

村田珠光 
 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(不(藤原定家)
武野紹鴎
 村雨の露もまだひぬ槇の葉に 霧立のぼる秋の夕暮れ(寂連法師)
千利休
 花をのみ待つらむひとに山里の 雪間の草の春を見せばや(藤原家隆)

あるいは茶道の心得を歌に託した。「利休百首」「茶道百首歌」と伝えられるものである。

 この和歌の世界を本格的に取り入れたのが、小堀遠州である。その最も特筆すべき功績は、茶入を時代別、窯別に分類するのに和歌の手法にならったことにある。

 遠州以前の多くは、茶入の銘は、その形状、所在、由来 景色によって銘々された。大名物など単純なものが多い。江戸時代になって、茶入の種類も多くなり、茶碗と同様細かく分類されるようになった。遠州は和歌の本歌取りの手法を用いて分類した。

 遠州は時代別、窯別、形状別に茶入を集め、その中で一番優れている茶入を本歌とした。例えば、金華山窯の茶入に古今和歌集の春道列樹の「昨日といい今日とくらして飛鳥川 流れてはやき月日なりけり」という歌を添えて“飛鳥川”という銘をつけた。これを“飛鳥川手本歌”という。また、同一種類の茶入に 後撰和歌集の「いはねども我が限りなき心をば 雲井に遠き人もしらなむ」という読人しらずの古歌を書つけ、「雲井」と銘々した。これを「飛鳥川手 銘 雲井」茶入という。このように本歌と◎◎手のような茶入の分類は、小堀遠州によって始められたのだ。

 和歌の力は絶大だ。言霊を通して神と交わり、人と交わる。公家や武家が歌を詠むのは遊んでいるわけではない。国や人を動かす原動力であった。中世以降、連歌師が活躍し諸国を回り歓迎されたのも、情報収集というだけでなく神が生きていた中世だからこそ、彼らの見えない力にすがったのだろう。戦乱が中世的秩序を崩壊させ、新たな時代近世の価値観を生み出す。そんな境界の時代に、連歌師たちによって茶の湯が次第に洗練されてゆき、利休につながる。

 しかし、利休の茶は異質だ。言霊が見えないのだ。和歌の力は絶対的であったにも関わらず、利休の活躍した6年間だけはこの言霊の力、宗教的タガがはずれた特殊な茶の湯であったのだ。

 織部も利休は歌が下手だったと述べているように、利休詠と伝えられている歌は少ない。その上、織部の言を裏付けるように上手いとは言えない。中世最後の芸術家でありながら、もっとも中世的なるものが見えないのだ。

 利休は下手だったから歌を詠まなかったのか、それとも意図的に言霊を遠ざけたのか。いずれにしても、足りなかった言霊を補ってあまりある力強い精神力が利休の茶を不朽のものにした。

 利休の茶の湯を検証していくと、その精神の原動力はタブーへの挑戦だったことがわかる。タブーとは宗教的タブーのことだ。言霊を遠ざけるかわりに、極めて土俗的な習俗を取り入れ、ケをハレに、ケガレをカミ(聖)へと逆転させる力である。

 虚構と現実をつなぐ和歌世界は茶の湯を創造力豊な世界へと導いた。しかし、利休の茶は創造力を否定した、、、。

2014年8月14日木曜日

茶の湯で哲学する〜戦国の茶〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「戦国の茶」。

名器は一国一城に値す

 戦国の茶を語るのに必ず引用されるエピソードだ。

 織田信長は名物狩りを行う。名物とは、室町将軍家が集めた唐物を中心とした美術工芸品のことである。後の時代には大名物と称するようになる。将軍の宝物だから町人や大名、小大名も含めて所持するべきではない。とくに京都、堺、奈良の町人から名物を半ば強制的に買いあげた。中には信長に取り入ろうと献上した者もいた。

 名物を集めるために、鑑定したり指図したりする茶の湯に長けた人物が必要だ。それが今井宗久や津田宗及、そして千利休などの堺の商人たちであった。しかし、その中心は信長の家臣であった松井友閑である。彼の家は代々足利将軍家に使えた家であったが、義輝が久秀に暗殺された後、信長に使えるようになった。一般には堺の商人たちが茶の湯を主導したように思われがちであるが、この頃の利休はまだ豪商としても、茶人としても、ナンバースリー、ナンバーフォー以下の存在でしかない。松井友閑というナンバーワンが信長の茶頭として信長の茶会を取り仕切っていた。

 信長は、茶湯御政道といわれる政策をする。茶の湯を政治的に利用した。信長は功績があれば、茶の湯を家臣に許し、名物も授ける。名のある家臣たちがこの栄誉を受けることになった。

 しかし「名物は一国一城に値する」と言われても現代人は理解出来ない。

 武士が茶の湯者として登場するのは、町衆たちよりもはるかに遅い。松屋久政の茶の湯の記録「松屋日記」には、書き始めてから約30年間その付き合いも町衆たちが中心であった。永禄4年(1561)に至って初めて武士の名が登場する。それが松永久秀だ。

 久秀は、大和の国を支配した戦国大名で松永弾正としてその名が知られている。彼の出生は謎に包まれているが、早くから茶の湯をしていたことは知られている。

 初めは畿内一帯を収めていた三好長慶に仕えたが、やがて三好家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に室町幕府第13代将軍・足利義輝を永禄の変で殺害し、畿内を支配した。しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その時に名物の「つくもがみ」を献上した。同道したのが堺の町人、今井宗久。彼もまた、隠れ無き名物といわれた松島の茶壷と紹鴎茄子茶入を献上する。

 天下一の名物がこの頃から信長のもとに次第に集まってくるようになった。その後信長に反逆して結局敗れる。信長にこれだけは渡すのも御免被ると爆死した時に手にかかえていた釜が、名物の平蜘蛛釜と伝えられている。久秀の茶の湯への執心ぶりを雄弁に物語っている。早い時期での久秀の登場は、彼もまた諸国を渡り歩いた連歌師系統の町衆出身であったと考えるのが妥当だろう。

 また、利休当時の茶の湯を知る史料としてもよく取り上げられる「山上宗ニ記」には唯一、武将で数寄者であると登場する人物がいる。それが三好実休(義賢)だ。三好実休は先の三好長慶の弟にあたる。36才で戦死するが、武野紹鴎や利休に茶の湯を学び、大名物の「三日月」の茶壷を所持していたと伝えられるなど実休だけでなく三好一族は茶人としても知られていた。そうすると松永久秀が三好氏にどのように取り入り実力をつけていったのか、想像出来るというものだ。茶の湯がはたした役割は大きい。

 武士が歴史の表舞台に立ったのは平清盛からだ。平氏が公家に代わって天下を取れたのは、軍事力でも日宋貿易で蓄えた経済力でもない。

 神話によれば神武天皇から現代まで続いている天皇家は軍事力は持っていない。さらに公家たちもそうだ。公家たちの日常をみてると、野に遊んだり、歌を詠んだり、蹴鞠をしたり、現代人の目からみると、遊んで暮らしてるのかと思ってしまう。しかし、天皇家でも公家でも必須の教養とされてきた。

 特に和歌の力によるところが大きい。言霊を通して神と交わり、人と交わる。和歌こそが国や人を動かす原動力であったのだ。

 平氏が滅んだのは、武士の本分を忘れて公家化したからだと云う説もある。これは大きな誤りだ。何の力も持たない公家が政治の中心に要られたのは、神と交わることができる手段であった和歌を詠めたからに他ならない。平氏も公家化したからこそ天下を治めることが出来た。まだ、神が生きていた時代である。

 その後、武家も歌は必須になる。戦国武将である細川幽斎の「武士の知らぬは恥ぞ馬茶湯はぢより外に恥はなきも」は、武士の心得を詠った歌としても有名である。茶の湯とはお茶を飲むだけではない。そこに公家文化、特に和歌の心得は必須であった。

 日本の場合、古来から国を治める力というのは、軍事力や経済力よりもソフトパワーが重視された。現代は軍事力や経済力優先だ。歴史を学ぼうとしない愚かな人たちが多いことか。

 平氏の時代を経て、武家が統治する時代が続く。その統治の後ろ盾は朝廷から与えられる官位であった。しかし、国が乱れてくると勝手に官位を名乗り、名乗らせたりして有名無実化していく。それが室町末期だ。武家が武家たる確たる証明が出来なくなった。

 武家の証明とは、身分、血脈のことだ。そしてそれを裏付ける官位であった。平氏、源氏の本流は名門として認識されてはいたが、多くの地方の豪族、地侍などその身分は保証されるものではなかった。それは町人たちも同様であった。

 珠光の名言に、「藁屋に名馬つなぎたるがよし」

 粗末な座敷にこそ名物を置くことがよいのだ。趣、なおもって面白いというもの。わびたる ものと名品との対比の中に思い がけない美を見出すところに珠光のわび茶の神髄がみられるということで解釈されることが多いようだ。

 戦国の茶は利休の代名詞でもある「侘び」がクローズアップされる。しかし、この時代の侘びは極めて現実的だ。それを裏付けるように小堀遠州の茶の湯伝書には「むかし茶湯に上中下の三段をわけたり」とある。

•上は其身すぐれ、或其の身に財あれば、名物所持ある故上とす。
•財あれども名物の道具不足なるか、あるいは道具あれどもその身まづしければ、是を中とす。
•下は財無、道具もまどしき故に下とす。これを侘といふ

「身分も高く、財力もあり、名物を持っている茶人を"上”。財力があっても名物の所持が少ない、名物を持っていても財の乏しい茶人は”中”、財も無く、名物も持てない茶人を”下”、つまり”侘び”と云っていた。

また「よき壷所持の人は人に御茶可申といひ、よき壷不持の侘は御茶可申とは云わざるなり」。昔は、名物を持たなければ茶とは認められなかったらしい。

 今で言うと一流、二流、三流の三段階。身分も高く、お金持ちで、そして名物を持っている人が一流の茶人。お金は持っていても名物道具を持っていない人、道具を持っていても身分が低い人は二流茶人。そして、お金もなく、名物道具も持っていない人は三流茶人。そして三流茶人を侘茶人といった。まあ、名物一つも持っていないようじゃ、一端の茶人と名乗っちゃいけねえなあと言うことだ。

 戦国時代は、中世から近世の過渡期でまさに混沌とした時代でもあった。その上、まったく価値観が異なるキリスト教文化が入ってくる。東と西の文化の出会いは中世の終を後押しした。

 しかし、天皇を中心とするヒエラルキーは現代まで日本にとって絶対的なものだ。この過渡期はその中で身分的に虐げられていた人たちが、這い上がることが出来る最後のチャンスでもあった。

 身分が違うと、日常生活でも様々な制約があり差別された。中世の身分差別は根深い。経済的に裕福であっても、大名として国を支配していても、出自に関しての劣等感は常につきまとった。彼らの劣等感を拭い去るもの、そして人としての証として利用されたのが「名物」であったのだ。それは新興の武士達も町人たちにとっても、眼に見える、世間に喧伝出来る絶好のアイテムであった。将軍家と同じ宝物を持てる身分になった。被差別からの脱却が、茶の湯に執心した理由の一つとして理解できる。

 天皇家でさえ、その継承の証が求められる。それが三種の神器なら、人としての証が名物であった。武士の間では下克上といわれ、どこの馬の骨かわからないような人物までもが一国一城の主にもなれた。秀吉はまさに出世頭ということになる。

 江戸時代になると身分が確定する。秀吉のような出世はありえなくなる。信長でさえ、町人に残していた名物茶器をも家康の時代になるとほとんどが武家のものになった。

 しかし、証がなくなったかというとそうではない。徳川の治世では大名が家督を相続するさいに、将軍家から名刀や茶器が与えられるようになった。いわゆる拝領品だ。しかし、与えられた大名が亡くなると、それを将軍家に返さなくてはならない。一代限りのものであり、刀や茶器が正当な大名の継承者であるという身分証明書、免許証ともなったのだ。

 幕藩体制が確立すると人間関係と人間のあり方について目を開かせ、身分秩序を正当化するために、儒学、とくに朱子学が幕府の学問として思想として影響を与える。茶の湯もしかり。人々が名物を求めてはいけない時代になる。足ることを知る、侘び茶の精神がもてはやされる。「名器は一国一城に値す」逸話も、国を継承する証となった名器が理想化されたに過ぎないのかもしれない。


2014年8月13日水曜日

茶の湯で哲学する〜連歌〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「連歌」。

 和歌が茶の湯に取り入れられるようになったのは武野紹鴎以降のことと伝えれる。紹鷗は連歌の宗匠としても有名であり、三条西実隆に和歌を学び、茶道 を藤田宗里、十四屋宗悟、北向道陳等から修めていたが、実隆より藤原定家の 「詠歌大概の序」の講義を聞いて、茶道の極意を悟ったと云われる。

 茶の湯はその始まりから連歌師たちが大きく関わってきた。連歌は身分を問わす誰もが参加出来る中世を通じて行われてきた芸能である。まず「発句」といって五七五を詠む、そして次ぎに「脇句」といって七七で受け、それから五七五の「第三句」になり、これを繰り返して行われる。時には数時間、十数時間かかる場合もある。ただ闇雲に詠むのではなく、宗匠と執筆が中心となってルールにのっとて進められる。これを式目と云った。

 連歌の宗匠たちは歌の技芸だけで生活していたわけではなかった。彼らは諸国を自由に往来できることから、公家や幕府の上級武士、地方の大名や有力国人とも親交を持ち、情報収集、情報提供を行い、マスメディア的パフォーマンスもすれば、政治的なCIA的活躍をする。それに対する報奨も含まれていた。しかし、たんなる情報屋ではなかった。武田と今川の間に入って講話を結ばせるなど、その外交手腕もすぐれていたのだ。

 このように連歌師たちは当時の情報ビジネスの最先端を走り、その情報提供料を自分の創作活動にあてていたのだ。都に茶の湯の流行の兆しがあれば、彼らは自ら茶の湯を身につけ実践した。それは、室町幕府の弱体化を背景に将軍家の御物が市井に流れ庶民にも名物を手に入れることが出来るようになったことにある。名物の行方は後に政治さえも左右する。彼らは積極的に茶の湯に取り組んだ。それは初期の茶の湯のリーダーと伝えられる人たちはほとんどが連歌師たちであったことでもわかる。連歌師たちが茶の湯の流行を作ったのだ。その連歌の形式は後の茶の湯にも大きな影響を与えた。

 小堀遠州筆の連歌会の記録が残っている。参加者は小堀遠州、松花堂昭乗、淀屋个庵、佐川田昌俊、橘屋宗玄だ。大名、僧侶、家老、町衆とその身分もまちまちだ。

落葉して風乃色ミる山路哉  (遠州)
ひらけはさむき霜の松の戸  (松花堂)
有明は時雨し雲にもれ出て  (淀屋个庵) 
泊わかるる浪乃うら舟    (佐川田昌俊)
遠さかる春の海辺の天津雁  (橘屋宗玄) 
永日暮るすゑ乃真砂地    (遠州)
帰るさの道は霞に隔りて   (松花堂)
いつくの里にはこふ柴人   (淀屋个庵) 

まず連歌会の主賓である遠州がまず最初句を詠んだ。

 落葉して風乃色ミる山路哉(宗甫)=発句 冬

 連歌のルールでは発句はその場に近い風物から入り、「や」「かな」「けり」などの切れ字で結ぶ。遠州の発句は初冬の山路の景色を詠んだ。赤い紅葉だったかもしれない。黄色い葉かも、茶色にクスンだ色かもしれない。そこに風が吹き落葉の景色を変える。そしてそれを「山路かな」と結んだ。 

ひらけはさむき霜の松の戸(松花堂)=脇句 冬

 発句に添えて詠むのが脇句と云う。座を用意する亭主の役割だ。当然、諸芸に通じていた松花堂が担当である。脇句は当季、体言止めをルールとする。そこで体言止めに松の戸と詠んだ。松で出来た粗末な戸だ。この一言で山奥の、粗末な一軒家が想像出来る。そして“同季”でなければならないルールに則り、松の戸に霜が降りて白くなっている景色をイメージした。山奥の粗末な一軒家に冬の訪れを象徴する冬の客、霜を詠んだのだ。

落葉して風乃色ミる山路哉 ひらけはさむき霜の松の戸

有明は時雨し雲にもれ出て(淀屋个庵)=第三句 晩秋

 三句は転回をしなければならない。それがルールだ。前句には付けるが、そのもうひとつ前の句からは離れる。このもうひとつ前の句からの離れが「打越」と云う。どうするか。淀屋个庵は前句を受けつつ、「有明は時雨し雲にもれ出て」とやった。
 冬の訪れを告げる発句と脇句の意向を、ふたたび有明の月、夜が明けかけても、空に残っている月、晩秋に戻したのである。これを「季移り」という。さらに目線を地面から空へと向けさせた。

有明は時雨し雲にもれ出て ひらけはさむき霜の松の戸

泊わかるる浪乃うら舟(佐川田昌俊)=第四句 雑歌 

 ここで一巡である。たった三句の付合であるが、その技芸たるやものはすごい。次の第四句は「軽み」と「あしらい」を要求される。これもルールである。では、どのようにあしらうか。あしらうのにもかなりの技能がいる。この句だけ見ると「泊わかるる浪乃うら舟」季節ははっきりしない。異った季の句の間には無季(雑)の句を挟むのが普通。つまり次の人のための前ぶりをしているのである。また、佐川田昌俊は、前句を受けての、僅かに漏れる月の光の先に映っている「泊わかるる浪乃うら舟」を表現することにより、場所も山から海へその景色を移し、これから出航するであろう船着場に漂う浦船に光を当てた。

有明は時雨し雲にもれ出て 泊わかるる浪乃うら舟

遠さかる春の海辺の天津雁(橘屋宗玄)=第五句 春

 句目はそろそろ加速していくところになっていく。まず、季節が一気に春へと移る。そこでまず「出航しようとしていた浦船と春になって渡っていこうとする雁を掛けて海辺から遠ざかる。雁は秋に来て春に渡っていく二つの季節を表している。秋から一気に春にとんでいるのも、雁を表現することでその間の冬の季節を想像させる。

遠さかる春の海辺の天津雁 泊わかるる浪乃うら舟


永日暮るすゑ乃真砂地(遠州宗甫)=第六句 春

 永き日、日中が長く感じられる春の日ながを読んでる。海辺から離れた真砂地に座って、だんだん暮れてゆく中、前の句を受けて、夕暮れの空に消える雁の姿を見ながら、物思いに思いふけっているのだろう。この句で初めて人が出てくる。

遠さかる春の海辺の天津雁 永日暮るすゑ乃真砂地

帰るさの道は霞に隔りて(松花堂)=第七句 春

 ところがこのまま一緒に遠ざかってしまってはダメなのだ。そこで話が終わってしまう。自分の元に引き戻さないといけない。霞がかかって帰り道がわからない。ちょっと意地悪な句でもあるが、実はこの句は八句目に生きてくる。

帰るさの道は霞に隔りて 永日暮るすゑ乃真砂地

いつくの里にはこふ柴人(淀屋个庵)=第八句

そして霞の向こうには、「いつくの里にはこふ柴人」柴と云うのは山野にはえる小さい雑木、柴人というのは山里に住む芝を狩る人のこと。最後に見事に山里に戻して結んでみせた。

帰るさの道は霞に隔りて いつくの里にはこふ柴人

 このような連歌の自由自在の発想は、茶の湯の精神にも影響を与え、この連歌会の形式が茶の湯へとつながっていった。一座を共にする者たちがルールに則り座を作っていく。その本質は連歌も茶の湯も同じなのだ。

2014年8月12日火曜日

茶の湯で哲学する〜行儀〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「行儀」。

 行儀とは、礼儀の面から見た立ち居振る舞い、またその作法・規則のことを云う。つまり、礼儀作法のことだ。同じ意味合いで礼法という言葉もある。礼儀のきまり、作法のことであるが、どちらかというと礼法はオフィシャルな場面を想定して使われてきた。

 例えば、遠州流の点前の中に貴人点という点前がある。貴人とは将軍や大名、公家など高貴な身分をさす。とくに遠州は茶道指南役ということから、そのような貴人を接待することが多かった。その貴人をお茶でもてなすために「台天目無盆唐物相伴付」という点前が今に伝わる。貴人一人に台天目でさし上げて、お供の者に他の茶碗で差し上げる点前だ。

 通常の点前では茶碗に人数分をいれ、柄杓一杯お湯を汲む。客が三人ならば柄杓五分三を茶碗に、残りのお湯は釜に戻すことになっている。しかしこの「台天目無盆唐物相伴付」の場合、貴人がもう一服所望した時に、相伴客に出した残りのお湯が釜に戻っては失礼に当たるので、相伴客に対してはは汲みきりといって人数分のお湯の量しか柄杓に汲まないのが習いである。これは昔の礼法の名残りであろう。茶道の中にもオフィシャルな礼法が残っているのだ。

 一方行儀は、庶民の礼儀作法を指す場合が多い。茶の湯において行儀がクローズアップされてたのは、明治維新以降の茶の湯からである。

 それは、女性たち、特に若い女性に大しての礼儀・作法を身につける場としての茶の湯が利用されたからだ。江戸時代は町人や農民の子弟たちが武家屋敷に奉公にあがり、そこで行儀作法を身につけた。しかし、武家の没落と共に奉公先はあってもかつてのように厳格な礼儀作法を身につける場は少なかった。その肩代わりを女学校に求めたのでだ。

 女学校に通える人たちというのは上流階級の子女たちである。このような女性たちがやがて妻となり母となる。女性に茶道が開放されたとはいえ、その頃茶道はまだまだ男性の社会である。江戸時代からの儒教の影響もあり、礼儀作法は上に従わなければならない従順さも求めた。そのため女性は行儀見習として茶道を習っても、師匠になることは出来なかった。

 しかし、皮肉なことに戦争の二文字が彼女たちを師匠の道へ誘った。日清戦争、日露戦争以降、たくさんの戦争未亡人の生活の糧になるように師匠になる道が開けたのだ。

 彼女たちは当然、行儀という面を重要視する。それまで一部の女学校、茶の宗匠に習わなければならなかった茶道の間口が広がった。

 昭和5年の読売新聞の婦人欄には次のような記事がある。

お嬢さんに勧めたい茶道

我国には、昔から抹茶というものが、生花と共に女の欠くべからざるものとなっていました。しかし、生花はともかく抹茶は時代に適しないものと思われているようですが、私は行儀のくづれたこの頃のお嬢様方に是非おすすめします。

「抹茶を習うのは時代錯誤だ。今頃習うものならダンスを習う」と、ある人に言われました。最もだと思います。ダンスはたしかに姿をよくします。しかしある弊害をともないます。考えてご覧なさい。堅実な家庭ではダンス場には出しますまい」

抹茶が家庭に何ら必要のないのは事実です。よほど高級な家庭でないと、お釜はかかりませんし、それだけの暇はありません。現代は誰もが働かねばならぬのですから、それよりコーヒーの入れ方の上手な方がよいことも承知していますが、私のおすすめするわけは、そのお茶のたてかたを習ううちに、知らず知らず行儀作法を覚えるからです。

いかに上流階級の人にしたって、洋服ばかりで暮らすということは日本人には到底出来ません。普通の家庭では日本服がやはり主です。着物を着る以上、着物のものごしが必要であります。

お茶を習うと第一に着物の着方が上手になります。ちぐはぐな着物を召して格好の悪いお嬢様もきちんろ体にしまりが出来て、よい姿になることは驚くばかりです。それは眼に見えない注意をするようになるからで、知らず知らずのうちに気品が出来てまいります。

それから食べ物の好き嫌いがなくなります。料理を知ります。人との交際を知ります。虚栄に走らない奥ゆかしい交際です。また、度胸が出来て、人様の前で小さくなりません。

そして控え目をいたします。なおこの抹茶作法は実に無駄を省いた合理的なもので感心します。清潔も解し、物のたいせつなことやら、取扱い方の注意も行き届きます。

私はおとなしい方より、少しがさがさした落ち着きのない方がお習いになって実に効果があると信じます。いつの間にか高級なもの無意義なものとして侮って等閑にしている茶道の真の意義を解して、どうぞ皆さんよき女性になって下さい

 礼儀・作法は江戸時代から嫁入り道具の必須アイテムとして女性に求められていた。しかし、戦況が厳しくなってくると、そのような微笑ましい記事は少なくなる。さらに物資が不足してくると、今まで通りの茶が出来なくなる。知足按分、足ることを知らなければならない時代に来るとその精神性、そして不自由な中での取り乱さない礼節が求められるようになった。

 一般に戦争に直接参加していない一般国民や国内のことを銃後と云った。多くの女性たちが間接的に何らかの形で戦争に参加する協力することになった。

 明治天皇の軍人勅諭の5箇条(1忠節、2礼儀、3武勇、4信義、5質素)は茶道の教えに重なることもあり、戦時下の中、積極的に戦争推進に茶道界は加担することになった。

 

 

2014年8月11日月曜日

茶の湯で哲学する〜正座〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「正座」。

 中学生だった頃、よく正座をさせられた。練習を真面目に取り組まなかったため、反省をさせる意味での正座だ。それが幸いしてか、茶の道に入っても正座は抵抗なく受け入れることが出来た。正座が楽に出来るのも、しばしば座らされたお陰かもしれない。
 しかし、現代は住環境も変化し、私たちの日常で正座をする機会も少なくなった。それ故、長時間座ると足が痺れるなど、多少なりとも苦痛が伴うことから茶道を敬遠する人も多い。長年茶道を嗜んでいる人さえも、正座が出来なくなったという理由から辞めてしまう人がいると聞く。
 漢字で書くと「正しい座り方」であるにも関わらず、多くの人から敬遠されている正座。実は正座という言葉は明治になってから出来た新しい言葉だ。それ以前には、正座のような座り方を「かしこまる」「つくばう」「端座」「跪坐」とも言った。明治時代に女子教育の一環として茶道が教育の場に取り入れられて以降、正座が流行したと言われる。江戸時代には、茶道と正座は絶対的な関係ではなかった。では、自由に座ってよかったのかと言うとそうでもない。茶道の座り方には重要な意味が隠されているのだ。

 その意味に気づかせてくれたのが、ある言葉との出会いであった。私もしばしば訪れる九州山地のほぼ中央部に位置する宮崎県椎葉村。尾根向こうは熊本県、北は神々の故郷、高千穂につながる深山幽谷の地だ。この村でお世話になった民宿のおばあちゃんから「茶の膝」という方言を教えてもらった。

 十数年前、この方言に出会って遅まきながら茶道における膝の重要性に気付いた次第だ。「茶の膝」とは家人が主人や客人にお茶や食事を出すために座る場所のことを言う。囲炉裏の周りは上下関係、役目によって座る場所が決まっているのだ。何気ない山村の方言であるが、この「膝」こそが、茶道における正座の意味をあらわしている。

 利休の座像をみて、利休は「胡座(あぐら)」をかいていた、つまり茶道では「正座」はしていなかったという説や武家茶道の正式な坐り方が「立て膝」であったという説を耳にする。しかし、これは茶の湯をまったく理解していない人の考えだ。私も「正座」が苦手で茶道を躊躇している人に対して「昔は正座はしてないですよ」と云うこともあるが、それは、茶道=正座というアレルギーを払拭させるために過ぎない。

 実は茶道のおいて、「正座」、「胡座」云々のスタイルよりも大切なことは「膝」である。神仏や貴人に対して敬意を表す動作に、地面や床に膝をついて身をかがめる「跪(ひざまず)く」という言葉がある。諺にも、「膝を正す」「膝を交える」「膝をくずす」「膝を屈する」「膝を進める」など、自分と相手との距離感をあわわすのに膝を使うことが多い。

 17世紀の茶書『草人木』にも「面々の座へ付て、亭主の出る迄、膝をなおさず、行儀高にして・・・」「貴人の御膝のあたりを通まじき故なり」「客の御膝ろくに御座候へと申」「礼終はらば、亭主膝の時宜を客にいふべし。客も亭主もろくに居る事もあり、始終亭主はかしこまりても居る也」「亭主膝をなおし、客のまへにむかひて」等々ある。座るスタイルよりも膝の有り様が大切なのだ。点前、身体の向きを変える、移動することを考えれば、少なくとも膝の自由がきかないと動きがとれない。

 『石州三百ヶ条』には「身のかねといふハ、我身をしかと居り、釜の蓋を取事の程能きをかねとする也」とある。”我身をしかと居り”とあるので、しっかりとお尻を畳につけて座った「割座」であったようだ。18世紀の茶書『茶話抄』にも「まつ居所を畳に付て腰をすえ、両の足の甲を畳に付け膝頭を張様に心を付べし」とある。「割座」とは、いわゆる「お婆ちゃん座り」「女の子座り」と呼ばれる座り方である。

 「胡座」のように足を組むという状態は、膝が開いてしまい動きがとれないことを意味するので、客ならともかく、動きを必要とする亭主にとっては不都合な座り方となる。「正座」、爪先を立ててお尻をかかとにのせる「跪踞(跪座)」、そして「割座」が膝を動かすことが可能で、茶道における座り方としてはありえるだろう。

 では、「立て膝」はどうかとうと、これは点前の中では許されたようだ。『草人木』に「大きなる釜ならば、なをしたる釜の正面へ身をふりなをり、右の膝を立て、膝かしらの上に右のかいなをのせてにじりやるべし」とある。大きな釜を畳の上を擦って移動させる時、体を釜に向けないと釜の中でお湯がたぶつくし、水が多く入っているので、そのまま移動させると腕に力が入り、しかめっ面になる等々、片膝を立てれば軽々と動かすことが出来るということだ。始終「立て膝」というわけではない。

 また、「一畳半又は風炉の時、道安肥満したる故、左の足をくつろけて居る。水翻は膝より外へ出候。され共、右の膝とこぼしとかねて同じ事也。是は肥満したるによって也」とも。肥満体だった千道安の点前での座り方を記した文章である。シンパシーを感じる一文だ。

 ”足(くるぶしより下)をくつろけて”とあるのだから、足を横に広げたと「横座り」の状態であったと思われる。当然、膝は通常の位置よりも後ろに引かれた状態になるので、こぼしが膝の線よりも外に出てしまう。例外的に「横座り」も膝を動かすことが可能なので許された。太った人に優しい時代だ。

 茶道の座り方は”膝”が重要であると書いてきた。膝が動く座り方であれば、決まった座り方はなく自由であった。茶道は正座をしたままじっと動かないという誤解が、日常の正式な座り方と混同して、「胡座」や「立て膝」であったと思われたのではないか。膝を崩してしまっては茶も食事も出すことはできない。亭主は胡座をかいてはいけないのだ。

 膝を自由に動かせる座り方こそが茶道の正しい座り方であった。膝の向き、状態、距離などで相手との関係を築くことにあった。正座が出来ない人は、いわゆるおばあちゃん座りでも、横座りでも、跪坐でも構わない。しかし、亭主が膝を崩してしまってはお茶も食事も出すことはできないし、お客様との関係を絶ち切ってしまう。亭主は胡座をかいてはいけないのだ。
  生活上でも私たちは膝を突き合わせることが少なくなった。それ故、他人との距離を測れない人も増えてきた。茶道の正座はたんなる型ではない。ましてや苦痛を与えるものでもない。たまに膝と膝を交えて、話をしながら、お茶を一服飲んでみてはいかがだろうか。

2014年8月10日日曜日

茶の湯で哲学する〜音〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「音」。

 茶席には様々な音に溢れている。茶席の中でそれを心地良いと感じるのは、日本人ならではの感覚といわれている。

 閑さや岩にしみ入る蝉の声

 日本人ならば誰もが知っている松尾芭蕉の俳句は日本人と西洋人と音を考える上で昔からよく引き合いに出される歌だ。西洋人は音を右脳(音楽脳)で聴き、日本人はか左脳(言語脳)で聴く。その結果、虫の鳴き声もただの雑音であったり、逆に心地良く感じたりするのだ。右脳で聴く私たちは虫の鳴き声にいろいろな感情を抱く。だから音ではなく声と表現するのだ。

 私が遠州流に弟子入りして一番悩まされたのは音であった。茶道のイロハもわからないうちから茶事の手伝いをさせられる。最初に茶事のことを教わったのは、植木屋さんからだった。庭の手入れから掃除の仕方、水播きなどの外回り、簾の上げ下げまで実戦で鍛えられた。

 簾をうまく巻き上げることが出来れば、一人前だ。遠州流の場合、柄杓で湯返しをする中水の音を合図に茶室の窓に掛かっている簾を順番に巻き上げていく。簡単なようで難しい。外に人の気配を感じさせず、音もさせずに同じペースで巻き上げる。
 
 水屋に控える者にとって、茶室内の音は重要だ。会話はもちろん、戸を閉める音、蓋を置く音、袴の擦れる音、釜の煮え音、茶杓を打つ音、湯返しの音等々。音によって、茶室の中の進行を把握するからだ。ところが、聞こえるべき音が聞こえない、逆に聞こえてはいけない音がすると、水屋は忙しくなる。不測の事態を想定しながら、あらゆる場面に対処できるように諸準備を整えていかなければならないからだ。事が起こってから対処しては遅いのだ。

 集中して一つの音を聞いてみてほしい。時計の音、エアコンの音、何でもいい。生活の中に様々な音が満ちていることに気がつくはずだ。音に対していかに鈍感になっているのかがわかる時でもある。

 茶室の中では不用意な音は禁物だ。時には建水から蓋置を取り出す時「カーン」と云う音色が響き渡る。建水に蓋置を当てた音だ。道具に音をさせると云うことは、形あるモノだけにヒビが入ったり、破損する原因となる。道具に対しては細心の注意を払って点前をすることが肝要である。

 近衛家煕の言行を集めた『槐記』に「茶湯に、三つの音と云うことあり。大切な器と云ひ、清閑の席なれば、随分物静に音せぬようにするは勿論なり。唯釜の蓋を引切(蓋置)に置く音と,.茶碗を畳に置く音と、茶杓にて茶碗の縁を叩く音と、是れ三音なりと仰らる」とある。許される音もあるのだ。
 
 さらに「茶筅打をすることは、前後に差別あり。初めは湯すすぎの茶筅は、湯にて穂を柔らげる為なれば、如何にも柔らかに打反し、茶筅すすぎも、静に音もせぬ程にすべし。後の水すすぎは、茶筅に茶の付きたるを濯ぎ清くする為なれば、如何にも慥かに音をして茶碗の四方共に能く洗ひ、穂をしごくやうにして、茶を落とすべし」とある。

 遠州流では、茶を点てる前に、必ず茶筅通しをする。穂を柔らかにするための実用的な面もあれば、精神的な意味合いも含まれている。清める、すすぐ等の作法を見ていると形だけでの人がいる。実用面が軽視される場合が多いのも事実だ。目的がはっきりすれば、自ずと点前も変わってくる。

 『槐記』には柄杓の扱いにおいて秘伝につながる記述も多い。「口の広き水指と、口の狭き水指とは、柄杓の遣ひよう異なり。口の広き水指は。柄杓を水指の前の方にすりて、静に汲めば、水動かず、水を見る故なり。口の狭き小さき水指は、真中へ柄杓を打込みて、音をして、水を汲む事なり」とある。

 口が広い水指の蓋を開けると、お客さまから水面が見えるため、たとえ柄杓で水を汲んだ時でも。波立たせず平静を保つのがよい。意識して前の方に”する”つもりで汲むと静に汲むことが出来る。金魚すくいの極意のごとくか・・・;。

 逆に口が狭いと、柄杓の合を斜めに入れることが難しいため、合を上に向けたまま底から沈ませるように柄杓を入れる。

 フロイス「日本史」には興味惹かれる記述がある。「私たちがごく上等な敷物が敷いてある、実にきれいな毛氈の上に座ると、私たちに食事がはこばれ始めました。日本はたいそう物ができない国であるので、その食べ物は賞美しませんが、給仕と、秩序と、清潔さと、器とは絶賛に価します。そうして、私は日本で行われる以上の清潔と整然さとをもって宴会を催すことはできないということを、間違いなく確かなことだと思います。なぜかというと、食事をしている人々は大勢なのに、給仕をしている者たちからは、ただの一言葉も聞こえずに、驚くほど秩序整然と万事はこんでいくからです」

 水屋(裏方)で静かに物事を進めることはなかなか難しい。修行時代、つい声を出してしまったり、音をさせて叱られたものだ。茶会にしても、料亭、レストランにしても給仕する側の心構えと自覚が足りないことが多い。

 禅の世界に「空心に点ず」という言葉がある。腹が空いた時にちょっとしたものを食べてしのぐことを云う。点心の由来である。禅宗は生活全てに細かい規則がある。清浄なる衆僧の規則と云う意味で「清規(しんぎ)」と云う。食もまた修行であり、作法も細かく決められている。

1)食べ物は口許へ運ぶ
2)食器を取る時は音を立てない。
3)咳払い、鼻水をすすったりしない。
4)頭をかかない。
5)食べるとき、汁をすするとき、音を立てない。
6)指で歯をほじらない。
7)ご飯を中央に寄せて固まりにして、大口を開けて食べない。
8)ご飯やおかずをこぼさない。
9)自分だけ早く食べ終わらない。
10)ご飯に汁をかけて食べたり、ご飯の上におかずをのせない。
等々。
この清規は茶の作法にも影響を与えたと云われる。

 静けさの中にも音がある。亭主は作曲家のごとく音を使い分け茶会を演出する。茶の湯は音を感じ取り、ご馳走としなければ楽しむことも出来ないのだ。

2014年8月9日土曜日

茶の湯で哲学する〜茶室〜

本日の哲学するのテーマは「茶室」。

 茶室の始まりは、広い座敷を一丈四方に屏風で囲んで茶を点てたという伝承に始まる。東山時代室町幕府八代将軍義政が村田珠光や、同朋衆の能阿弥、芸阿弥などに命じて新しい茶礼を作らせた。そして、広間を一丈四方に屏風で囲んで中国から持ち帰った台子に風炉や釜をのせて点前をしたと伝えられている。

 広間の一部を囲ったことから、母屋の一部に付属する茶室のことを「囲い」と称し、一軒の独立した茶室の「数寄屋」と区別するようになった。

 一丈四方というのは、お釈迦様が生きていらっしゃる頃、維摩居士が方丈の部屋を作って、その中に菩薩さまを何十人、何百人と招き入れたという故事にもとずくものだ。一丈四方といのは、畳の数に直すと今の四畳半に相当するので、以来、この四畳半が茶室の標準の大きさとなった。四畳半を基準にして広い部屋を広間、狭い部屋を小間と呼ぶ習わしだ。四畳半は広間でも小間でもいずれも使用できる。

 部屋を区切る、空間を区切るというのは、非日常の空間を創りだすということで、今でも祭り等で行われていることだ。例えば私がよく行く九州の夜神楽でも神を迎える空間が作られ日常の空間と区別する。二間四方の四隅の竹と榊をたてて回りを注連縄で囲んで、神を迎える空間を作る。これを神庭(こうにわ)と云う。この中で神楽が演じられるのだ。

 茶室に限らず、部屋の中に入るには出入口が必要だ。一般に玄関という。これは禅宗方丈の玄関が出入口にあたり、以来出入口を玄関、これが次第に貴族や武家の正式な出入口なり、主人や来客が出入りする正式な出入口を式台玄関、家族用には内玄関、使用人には勝手口と出入口を区別した。

 民家では裕福な村役といった一部の層の人たちには玄関を設けることが許されたが、普通は土間(日常)、背面(炊事)するための出入口が設けられた。来客があった場合は縁側がその役目を果たした。この縁側が客人の出入口、もてなす場、あるいは非日常、婚礼、法事、葬式などの出入口となったりしたのだ。

 茶室には四つの入り口がある。「躙口(にじりぐち)」「貴人口(きにんぐち)」「茶道口(さどうぐち)」「通口(かよいぐち)」だ。躙口と貴人口が客の出入りである。両方備わっている茶室もあれば、片方だけの場合もある。茶道口と通口は亭主の出入口だ。茶道口は必ずある。通口とは料理を運んだり給仕するたに使用することから給仕口とも云う。茶道口は方形であり、相対する給仕口は火灯口と云われるように上が円形となる。

 茶室の中は平等であるという思想は間違いである。聖なる場所、境界であるゆえに世間との縁の切れた状態であることには間違いない。しかし、茶室に一歩足を踏み入れると、新たな秩序が生まれる

 茶室はもてなすための空間故に、もてなす側、もてなされる側の出入口が一緒では境界を汚すことになる。様々な場面で境界を意識するように作られているのだ。

 さて、茶室に入ると、まず目につくのが床の間であり畳だ。もともと床は空間的な序列をあらわし、ひいてはそこに位置する人間の身分の違いをあらわした。時代劇で目にする牢名主が畳を重ねて座っている場面は、同じ牢屋でありながら、見ただけで牢内の上下関係がわかるよう空間的序列を表してるのだ。

 寝殿作りでも身舎(もや)とそれに付属するヒサシの関係が床の高さの違いにあらわれ、また貴人の位置のおいた畳によっても高低差が生み出された。畳は古代の貴族住宅より使われるようになったが、一般には畳は貴重品で畳を敷き詰めるのは接客のための座敷であっても、通常は畳を敷かず板床のままにし、来客や行事のあった時に畳を敷いた。

 茶室では畳は一枚一枚同じでも、敷く位置によってその役割が異なる。道具を置く畳、客が座る畳、亭主が点前する畳と役割が決まっているのだ。

 一方、天井に目を移すと空間的な序列が如実に現れる。天井も庶民にとっては贅沢品、江戸時代にはたびたび禁令なども出された。

 一般的にお客様の座る畳の上に作られるのが、天井面を水平に作った陸天井(ろくてんじょう)である。つまり、茶室の中で一番空間的にも高さがあるところだ。点前の畳の上は一段落として、萩か蒲を張った天井。そして躙口の上は屋根の傾斜をそのまま見せた駆込み天井にする。空間を主と従に区分する境界的役目、つまり入り口であるということになるのだ。

 茶室では炉が切られる。囲炉裏や竈は家の中心、象徴であり、火所は異界に繋がっていると信じられてきた。当然そこには火の神さまがいる。茶道においての炭点前の起源も火の神さまに対するものであった。聖なる場所ゆえ、昔からいろいろタブー(禁忌)があった。

 茶の湯の理論の一つとして昔から引き合いに出されるのが『南方録』に書かれている「曲尺割(かねわり)」だ。茶室もこの理論で説明されることが多い。7と9の陽数がキーワードとなる。分かり易いのが畳。茶の湯の場合は京間が標準となる。京間の寸法は7×9の6尺3寸。畳に切られる炉の寸法は、7×2の1尺4寸、大炉の場合は9×2の1尺8寸となる。茶室の道具の置き方も曲尺割で説明してしまう。

 どんなに芸術性が高く素晴らしい作品でも、寸法が合わないと茶室では使えない。現代の作家の中には茶道具と称しながらもそれを無視した作品も多く見受けられる。
 その基本は台子である。侘び茶の象徴である炉の寸法は、台子の幅1尺4寸四方をそれにあてている。今は風炉の季節であるが、風炉をのせている小板の寸法は、炉の内法の大きさ、9寸5分である。この置き位置というのは壁付(左側)から1尺4寸を越えてはいけない。つまり、壁付(左側)から4寸5分離して小板を置くのだ。

 茶室というのは世間との縁を切った無縁の状態を創りだすが、一歩中に入ると新たな秩序が生まれる。人も道具も同じだ。分子がバラバラだと無秩序の状態では不安定だ。その秩序は永遠のものではなく、何かの化学反応があると自由自在に組み合わされ一期一会の場を創る。

2014年8月8日金曜日

茶の湯で哲学する〜年中行事〜

本日の哲学するテーマは「年中行事」。

 日本文化いろは辞典には「年中行事とは、1年の間に行われる儀式・行事の事です。もとは宮中で行われるものを言いましたが、後に民間の行事・祭事も年中行事と言うようになりました。私たちは普段、地球が太陽のまわりを1周する期間(365日)を1年と決めて作成される「太陽暦」を使用しており、様々な行事・祭事がその1年間に執り行われています。」と書かれている

 世界にはいろいろな国があるが、日本ほど明確な四季がある国というのは少ない。そこで古来から、この1年の移り変わりをただ自然にまかせるというのではなく、そこに神さまの姿をうつし、人為的に、平和的に、この移り変わりを促し、あるいは不幸な災害をも享受しながらも、お祭りや催事など様々な催しを行なってきた。これがいわゆる年中行事と云われるものだ。

 年中行事というと、柳田国男を代表とする民俗学的方面から様々な研究がされてきた。それに国文学を加味したのが折口信夫。さらに有職故実からの研究、そして文献からの研究と様々な方面から研究されている。

 当然、民間で行われてきたこと、宮中で行われてきたこと、武家で行われてきたこと、その中には根源を同じにするものもあれば、それぞれ独自のもの、地域性のあるもの様々ある。最近では、今盛んに宣伝している恵方巻きという、まったく起源や根拠の不明ながらも商戦にうまくのっかてしまったものまで年中行事化してしまった。

 現代の茶道は、この年中行事の影響を多く受けている。節句に因んだ雛祭り茶会、七夕茶会、さらにはキリスト教圏の行事であるバレンタインやクリスマスの時期にも茶会が行われる。個人的にも、還暦茶会など生誕に因んだ茶会、学生ならば卒業茶会等々、さまざまな人生の通過儀礼を記念して茶会を開く。

 日本人は四季の移り変わりを大切にし、それを年中行事とした。年中行事は四季感と置き換えることも出来るだろう。それを巧みに取り入れたのが茶の湯ともいえる。
 
 しかし、茶の湯が最初から四季感を取り入れていたわけではなかった。初期の茶の湯は名物、いわゆる道具を所持すること、鑑賞することがまず第一の目的であった。名物を持っていないと一流の茶人と認められなかった時代であった。

 一方、茶の湯の生まれた時代は、神仏が人々の生活を支配していた霊異な世界に人々は生きていた。一見俗物に見える名物願望も、その儀式は神仏の加護のもとで行われていたのだ。

 茶の湯は囲炉裏を囲んで行う儀式である。元々、もてなす座敷に囲炉裏を切り茶の湯をしたことから、茶の湯の間、茶の間が生まれる。家の中心は囲炉裏であり火の神であった。神を囲んで一年の営みが繰り返された。

 茶の家では今でも大晦日に炉中の火種を灰に埋めて埋み火にし、新年の茶のための下火とする。火を途絶えないこと、新年に伝えること、そして若水で茶を点てること、これは茶の湯に限らず、民間でも行わててきた年中行事だ。火を絶やさないということは洋の東西を問わず、宗教的な意味会いが大きい。

「東の囲炉裏(炉) 西の竈」とい諺があるそうだ。寒冷地の東日本には炉、温暖な西日本は竈が主流であった。初期の茶の湯は商人たちが中心となり進取の気性に富んだ西の文化だと思われがちだが、その性格はきわめて東の文化、土地に根付いた土着的なもと云っていいだろう。茶という文化は元来農耕的であるとも言えるのだ。自然を畏怖しながら神の前で茶が営まれてきたのだ。

 中世も終わり、江戸時代に入ると神仏の概念が形式化してくる。人を超えた存在であった宗教が幕府によって秩序の中に取り込まれてしまった。それは宗教だけでなく人々の生活も同じである。身分制度のもと、武士は家名を、商家は暖簾を、農家は田畑を守ること、つまり家を守り子孫に残すことが第一の目的となった。伝統芸能の世界でも家元制度が確立されていったのもこの時代だ。一年のサイクルが毎年無事繰り返されることが願いとなり、それが幸せとなったのだ。

 このような時代背景の中、守る、伝えるという思想が茶の湯に反映され、同時に四季感が茶の湯に取り入れられるようになったのも時代の要請であった。

 現代では家の概念も薄れ個が優先されるようになった。家の概念の喪失は、当然建物にもあらわれ。生活の中心である家の間取りも、個が優先されもてなす空間もなくなりつつある。それは家から火、つまり火の神さまがいなくなったことと無関係ではないだろう。

 祭りもイベント化し、個の楽しみとなりそこにさえも神の姿を見ることが出来なくなってきた。年中行事も商戦に乗らない限りは次第に廃れつつある。

 茶道もまた個の思想が中心となり、四季感もマニュアル化され茶会に取り入れらることが多くなってきた。

2014年8月7日木曜日

茶の湯で哲学する〜湯相・火相〜

本日のテーマは「湯相・火相」。

 湯相、火相とは、湯加減、火加減のことだ。茶道はもともと茶の湯といったことからも、茶と湯の関係が茶の湯を成立させる第一条件と言っても過言ではない。湯というのをいかに大切にしてきたかがわかる。

 お湯が沸かなければ茶の湯にはならない。美味しいお茶を供するためには、炭を起こして火加減を調整し、理想の温度でお茶を点てなければならない。昔から、秘伝として湯相、火相の大切さを茶人たちは説いてきた。

 茶会ではお客様から美味しいお茶だったという声も聞くわけだが、それでも良い茶会だったというのは、名品揃いだったということに終始することが多いのも事実だ。今日は茶の湯の根本に帰って、湯相、火相を考えていきたい。

 江戸時代に成立した秘伝書「南方録」には湯相、火相に関することが度々出てくる。

数寄屋にて、初座、後座の趣向のこと、休云、初は陰、後は陽、これ大法也。初座に床はかけ物、釜も火相衰へ、窓に簾をかけ、をのをの一座陰の体なり。主客ともに其心あり。後座は花をいけ、釜もわきたち、簾はづしなど、みな陽の体なり。

 茶事は二部構成で成り立っている。まずは第一部、これが初座。茶席に入ると、床の間には掛物のみが掛かっている。そして炉には釜一つ。炉中には下火だけが入れられている。そして、窓には外の光が直接茶室内に入ってこないよう簾が掛かっているので茶室の中は薄暗くまさに陰の装いである。

 炉中は下火だけなので当然、火相も衰えている。釜もまだ水のままだ。ここで炉中の釜を上げ、炭をつぐ。炭が火相、湯相のポイントの一つだ。これから2時間後の濃茶の時間に湯の沸き具合い、湯加減、つまり湯相を最高の状態にしなければならない。炭をついだ後、懐石も終わると中立だ。客は一旦席を立ち、亭主側は室内を改める。そして第二部、後座が始まる。後座では掛物を巻き、床の間には花が生けられる。そして、客が茶席に入ったならば、炉からはシュンシュンとした松風の音、釜の煮え音が聴こえてくる。陰から陽へと茶席が転換したのだ。

かくの如き大法なれども、天気の晴くもり、寒温暑湿にしたがいて変体をすること、茶人の料簡(りょうけん)にあり。たとえば、鬱陶しき天気などの時、初座簾をはづし、突き上げをあげ、花をいけるなどすることあり。されども一向に陽とは心得べからず。
火相を以て第一とするゆへ、かくのごときの体を陰中の陽と云べし。この時とても後座を陰にするとは云ことはなし。右火相にて勘弁すべし。

 これが茶の湯の陰陽の大原則であるが、その日の天候、気温、湿度等、茶人の判断によって臨機応変に対処しなければならない。鬱陶しい天気の時は初座でも簾を外し、突き上げ窓をあけたり、花をいけたりしてもよい。だからと言って、すべてが陽であると考えてはいけない。

 ここが一番大切なところで、陰か陽かを決める一番大切な点は火相であるということだ。部屋をいくら明るくしようが、花を先に生けようが、初座の火は下火のまま、火は衰えた状態のままなので陰である。この状態を陰の中の陽というわけだ。茶席の陰陽は火相をもとに考えなくてはいけない。それは茶の湯が火の神さまを囲んだ儀式である以上当然のことなのだ。

 茶の湯にとって一番大事な時期は口切の季節である。口切とは茶壷に詰めた新茶を旧暦の10月(現代の11月)に茶壷の口を切って茶を喫する行事である。そんな口切りの時の心得もある。封を切ったばかりなので茶の気も強い。

草庵ていの口切は火相心得べし。火をつよくするべし。

 草庵風の侘び茶の口切は火相に注意すべきである。


また火相によりて、先ず炭をすることあるときは、懐石の間、見合て炭をくはへてよし。巧者の客ほど火相に心を用いて、心いそぎするゆへ、炭加へ候へば、客落付て心閑なるもの也。

 火相によって、最初に炭点前をすることがある時は、懐石の途中でも様子をみて炭をつぎたしてもよい。熟達の客ほど気を使って火相がおとろえてはいけないと懐石を急いだりするので、炭をつぎたせば、落ち着いて心静かに懐石などを楽しめるというわけでだ。

 今時このように気を使う客人はなかなかいない。懐石になるとお酒も入り気も緩みがち、時間が過ぎるのも忘れる人も多い、、、。

さて服常よりうすくしてよく、ふりてよし。湯相も雷鳴のとうげ、いかにもつよき湯相肝要なり。

 昔、口切りの茶は客が懐石を食べてる間に、水屋で茶臼を回して挽いたと云われる。水屋から聴こえてくる茶臼を挽く音がまたご馳走となるのだ。時間をかけてゆっくり製された挽き立ての抹茶が出来上がる。

 挽きたての抹茶は気が強い。だからいつもよりも薄めにして、しっかりと茶筅を降っても良いということだ。抹茶が強い分、語弊はあるが少々長く茶筅を振り続けても気が飛ぶことはない。湯相も、雷鳴の峠といった、いかにも強く沸騰している状態がよいのだ。

 では、茶の気が衰えた時はどうすれば良いか。強く沸騰している状態では、茶の気が負けてしまう。沸き立っている状態ならば、水をさして温度を下げ、茶の気を引き立てなければならない。

 湯相、火相を調整するにはまずは灰形の作り方、そして炭の入れ方が大切となる。つまり灰ならば、お客様の顔ぶれをみて、長くなりそうなのか、早く終わりそうなのかを考えながら、灰の懐を深くしたり、浅くしたり、灰の形を整える。炭のつぎ方も肝要だ。炭に関してもさまざまな教えが伝えてれている。

「炭置きの習いばかりにかかわりて 湯のたぎらざる炭の消えしか」(遠州流茶道百首歌)

 湯が沸きすぎたり、湯が沸かなかったりする原因の一つに炭の置き方がある。流儀によって炭の種類、形、寸法、名称等異なるが、火が充分に起きるよう、茶事の間、湯が沸いているように、それぞれ炭には役割があり、現在の形となった。

 ところが、教わった通り炭を置こうとするあまり、炭をキツキツに詰めてしまう。その結果、空気の循環が悪くなり、火の移りが悪くなるばかりか、立ち消えする場合もある。下火(火種)と炭との間に、空気の通り道を充分空けるようにするのがコツなのだ。これはバーベキューであろうと、キャンプファイヤーであろうと同じ理屈である。

 お湯が沸かなければ茶の湯は始まらない。残りの下火の具合、炭の具合を見て、時には臨機応変に炭を組み替えるなど工夫しなくてはならない。

 しかし、上手く炭を組んだと思ってもダメな場合がある。

「炭おかば五徳はさむな十文字 縁を切らすなつり合いを知れ」(遠州流茶道百首歌)

茶の湯にはタブーがある。特に武家茶道の遠州流では”縁を切る”と云うことを嫌う。”縁を切らすな”とは、五徳を炭と炭で挟んだり、炭同志が交わったりすることなく、それぞれの炭が関連を持つように入れていくことを云う。それぞれ隣にくる炭と重なるように置いていく。


「みわたせば上手も下手もなかりけり にえ湯たやさぬ人ぞゆかしき」(遠州流茶道百首歌)

 湯加減の大切さ、茶人の心得は結局のこの歌に尽きるということだろう。かつては、不時の客が訪ねてきてもすぐにお茶が出せるように、常に釜を掛けておくことが、茶人の心得の一つであった。利休が茶の湯の執心ぶりを聞き及んで、不意に茶人の宅に伺ったところ、釜の煮え音が・・・。ところが、炉壇に手を触れたところ温まっていないことに気付き、早々にその家を辞したという話も残っている。

点前の巧拙、茶道具の善し悪しは重要ではない。遠州の書捨文は次の一文で締めくくられている。

明けくれてこぬ人を まつの葉かぜの釜のにえ音たゆることなかれ

2014年8月6日水曜日

茶の湯で哲学する〜水〜

本日のテーマは「水」。

 NHKで放映中の大河ドラマ「軍師 官兵衛」も水と大いに関係がある。官兵衛は晩年「如水円清(じょすいえんせい)」と号し出家するが、この如水の名の方が世間一般で知られているかもしれない。この号の由来は、いろいろ諸説があるようだ。「水は方円の器にしたがう(荀子)」、「身は褒貶毀誉(ほうへんきよ)の間にあるといえども、心は水のごとく清し」という中国の古語によったものとも伝わっているが、よくわからない。ここにも坂本龍馬のように司馬史観の影響があるのかもしれない。また、キリシタンであったことから「ドン・シメオン」という洗礼名も持っており、この如水についても旧約聖書に出てくる城攻めの名人であったジョズエ(Josué)から取ったという説もある。

 伝承によると官兵衛が茶の湯を始めるのは、小田原攻めの時、秀吉から茶の湯を誘われてしぶしぶ茶室に入っていくとく「武士が他の場所で密談をすれば人の耳目を集めるが、茶室ならば人に疑われることもない」と言われて、茶の湯の世界に足を踏み入れたとされている。

 その官兵衛が残した茶訓が伝えられている。

【黒田如水茶湯定書】
一、茶を挽くときには、いかにも静かに廻し、油断なく滞らぬように挽くべきこと
一、茶碗以下の茶道具には、垢がつかないように度々洗っておくこと
一、茶の湯をひと柄杓汲み取ったときには、水をひと柄杓差し加えておくこと、決して使い捨てや飲み捨てにしてはならない

右我流にてはなく、利休流にて候間、能くよく守り申すべく候事。惣じて、人の分別も、静かと思へば油断に成り、滞らぬと思へばせはしく成り候て、各々生まれつき得方に成り候。又、随分義理明白なる様にと思へども、欲垢に汚れ易く候。又、親主の恩を始め、朋輩家人共の恩にも預かり候事多く候処に、其の恩を報ずべきと思ふ心なく、終に神仏の罰を蒙り候。然らば、右の三箇条、朝夕の湯水の上にも、能くよく分別候ため、書付け置き候なり。


 古来から水に対する信仰は厚い。古事記の世界でも川の水は清めの力を持っていたり、茶道に限らず新春の水を使うことを若水を汲むという慣習は今でも残っている。

 元旦に水を組めば若々しく長生きし、幸せに暮らせると云われる。また東大寺二月堂のお水とりも旧暦の2月1日に行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会(しゅうにえ)」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。

 行中の3月12日深夜(13日の午前1時半頃)には、「お水取り」といって、若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われる。また、この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明(たいまつ)に火がともされ、参集した人々をわかせる。このため「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれるようになったのはご存知の通りだ。

 このように昔から水は神仏と深い関わりがあった。そして特別な水が存在する。それが川であったり、湧水であったり、井戸であったりする。

 この如水の教えに書かれているように、湯水を使うときは、神仏に仕える心をもって接しなくてはいけないと諭すのも日本人の信心の影響を受けているからに他ならない。茶の湯で最後の仕舞いに水指から水を汲み釜に差すことも、使い捨て、飲み捨てを戒め、現代的に言うならば湯水を大事せよ、使ったならば元の状態に戻せということなのだが、そのまま放置することは神を蔑ろにすることになるのだ。

 そう考えると、特別な水を汲む道具もそれなりの意味がありそうだ。飾ることが中心であった東山時代の茶道具の中の水指も唐銅などの金属や陶磁器であったものが、茶の湯が連歌師や町人たちの間で行われるようになると、手桶や釣瓶など井戸や川で水をくみ上げる道具が水指として使われるようになる。この事実は見立てという以上に重要な意味合いを持っていると考えられる。川、井戸は他界の出入り口であるという考えは、古から日本人ならば誰もが持ち続けている思想だからだ。

 日本人にとっての水は宗教性の高い水なのだ。若水を汲んでお茶を点てるのも、手桶を水指で使うようになるのもまたしかり。遠州流では、五行の思想に基づいた空手水という抹茶を入れる前に必ず行う手の清め方もある。まさに、それらが宗教性、あるいは民俗性、古い慣習を帯びた「水」ということになる。

 次に茶の湯では物質的な水を挙げることが出来る。物質的な水の象徴として「名水」がある。昔から「茶は水が栓」と言われるように、良いお茶を上手に点てるには、良い水を選ぶことが大事であるということわざもある。

 東京には御茶の水という地名がある。当然、お茶という地名がつくので、お茶と関係していることぐらいは想像がつく。昔この辺りに高林寺という寺があり、ある夜、境内に突然清泉が吹出し、世の評判になった。そこで将軍家光がそれを聞いて「御茶水」として献上を命じ、以後寺の名も「御茶水高林寺」と別称されるようになったことからこの一帯を「御茶の水」と称するようになった。しかし、その後この清泉も崩れてしまい、明暦の大火で焼けてしまったこともあり、この寺も駒込に移転してしまった。そのような話が伝わっている。

 正確にはどこにその清泉が湧く御茶の水があったのか今日ではわかりらない。御茶の水という地名は江戸以降ということになる。もっとも御茶の水という名はその地域の総称であって、駅や橋の名前があっても正式な地名は駿河台という。

 江戸というのは埋立して出来たところで、もともと水はけも悪く、海に面していたので、湿地であり、川の下流の方も井戸を掘っても塩分の多い水が多く飲むには適してなかった。そこで、江戸の町を作るときに家康の命令で上水道を作った。それが小石川上水、神田上水であり、その後人口増加と共に玉川上水も作られる。よく時代劇の中で長屋で井戸から水を汲み上げるシーンが出てくるが、あれは正確には井戸水ではなく、上水道の水、つまり江戸時代から江戸っこは水道水を使っていたということになる。しかし、上水道といっても今みたいに品質が管理されているわけではないので、下流になるにしたがって水が濁ったり、臭ったりだとか、飲むのに不都合が出てくる。そこで、水売りという商売もあらわれる。つまりミネラルウォータがすでに売られていたのだ。そんな江戸の水事情故に、江戸の駿河谷に水が湧いたとなるとそれは大ニュースであっただろう。

 この御茶の水と名づけられた時期、いわゆる寛永の時代こそが、名水を考える重要な時期とになる。蛇足だが、この清泉が出たといわれる高林寺と遠州の屋敷は目と鼻の先であった。献上されたのが事実であるとすれば、それは遠州抜きには語られないのではないかと想像する。今でも外堀の内側から湧き水が出ている箇所がある。検査したところ大腸菌が多くともても飲み水には適さないとのことだが、お茶の場合、お酒に使う水と違って不純物が入っていない水よりも何か入っていた方が適している場合も多々あることから、水が湧き出しお茶に使ったというのは事実かもしれない。

 ここで、名水の歴史を振りかってみると、名水をひとまとめに紹介した最初の本は枕草子といわれている。空海が杖をさしたところから水が沸いたとか、そのような神仏に関わる水の話はそれ以前からあるが、枕草子では名所や和歌との関連で選ばれた名水が記されている。

 ところが鎌倉時代に名水の記事はない。室町時代もないのだ。そんなことはないだろう。能阿弥や利休の名水があるじゃないかと反論される方もいらっしゃるだろう。しかし、三名水とも伝えられる醒ヶ井(さめがい)、柳の水、宇治橋三の間の水も江戸時代以降の書物が紹介しているに過ぎない。つまり、茶の名水も茶道が確立してからの産物とみてもいいかもしれない。

 では茶会で名水が使われていたならば、客としての心得として知っておかなければならないことがある。お茶をいただいた後、お白湯を所望することである。「今一服いかがですか」と問われたら、「お茶は十分ですので白湯を頂戴したい」というのが礼にかなった客の作法ということになる。

 ここまで、宗教的な水、物質的な水をみてきたが、最後に精神的な水を考えたいと思う。そのキーワードが「露」である。「露」というのは究めて茶道的な言葉だ。例えば露地。もともとは露ではなく路という感じが当てられていた。時代が下るにしたがって次第に「露」があてられるようになる。それは、露地のあり方を、仏界とむすび、ここに入るときはすべての雑念を捨てて、仏心、つまり仏様の心を露出する、著すということに繋がる。一般家庭の庭を露地ということはないのだ。

 最期に遠州流に伝わる茶道百首歌を紹介してこの項を終える。

「三つのつゆ 五つにかようと聞くときは 四つあるものは一つなりけり」

 三つの露とは、先に述べた露地と関係している。茶会では、お客様が席入りする前に一度水を播く。そして中立の前に一度、そして茶会が終わりお客様が席を立つ前に一度、打ち水をする。この三度の打ち水のことを三つの露と云った。南方録にも「露地にて亭主の初の所作に水を運び、客も初の所作に手水をつかう。これ、露地、草庵の大本なり」とある。露地の手水鉢で世間のけがれを落とすのだ。

 では次の茶室の中に目を移して見ると、茶席の中にも露がある。掛け物の風帯の露、茶杓のかいさきの露、茶入の仕覆の露、そして花の露だ。これが茶席の中の四つの露、この歌で云う四つあるものということになる。五つにかようとは、露地の打ち水を一つとして数えると、茶席の中の露とあわせて五つ。そう考えると茶席の中の露も五つあるので、あわせると一つということになる。なんか謎かけのような歌であるが、その心は露の大切さを伝えるための歌なのである。

2014年8月5日火曜日

茶の湯で哲学する〜裂〜

本日のテーマは「裂(きれ)」。

 近衛家熙のお抱えの医者であった山科道安が、享保9年から同20年までの間、家熙の言行を記述した「槐記」には次のように述べられている。
「総じて表具の取り合わせと云うことは、第一に一軸の筆者を吟味して、この人はどれほどの服を着るべき人ぞと工夫して、その人に相応の切を遣うこと、これ第一のことなり。今の人、沢庵、江月、利休、宗旦などに、古金襴を遣うことは何事ぞや。不相応は勿論、いと文盲なることなり。古き表具に、左様なるは一軸もなし」

 天皇が書かれた、公家が書いた、南宋の高僧が書いたのに比べると、沢庵、江月、利休、宗旦なんかに格の高い古金襴の裂を使って表装するとは何事ぞと怒っているのだ。身分や格によって必然的に掛物に使われる裂も異なってくる。掛物はたんなる道具ではなく、人そのものだからだ。

 服は特別なもので、人も身分によって、服装の規定があった。服装を見るだけでその人の身分がわからなければならなかった。現代でも制服があるから、あの人は警察官だ、消防士だとわかる。制服がなくても襟元につけているバッジによって、赤紫色のモールに金色の菊花模様があるから、あの人は国会議員だというように、着ているもの、身につけているものによって、その人の身分を区別している。それは、日本の国が出来てから現代でも脈々と続いているのだ。

 それでは、裂の歴史、織りと染めの歴史を振り返ってみよう。
『日本書紀』には、応神十四年の項に、弓月君という人が百済から来朝して、秦の国民、1万人規模の人びとを連れて帰化したい、と申し出たことが記されている。その後。渡来した弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだといい逸話も伝わっている。

 同じ頃、百済や中国の呉、漢から縫衣工女(ぬいひめ)らが次々に来日する。錦、綾などの高級織物や刺繍などの仕事にたずさわっていた。彼らは自らは布の衣褌(きぬはかま)を着て、絹などは着ることは許されず、絹は天皇に納められたといわれている。

 さらに、8世紀に大宝律令が制定されるなど律令制が国の根幹に据えられると、民衆に到るまで服装は政府から規制、統制されるようになる。

 織物をはじめとする裂は、律令の時代には現代の貨幣と同様に扱われたため、現代の造幣局と同じように大蔵省で錦(にしき)・綾などが織られた。また、染め物をつかさどった役所、織部司(おりべのつかさ)も設けられた。宮廷の修繕や食事、掃除、医療などの庶務一切を務め、天皇の財産を管理した宮内省には天皇・皇后に供御する糸・布・織物類の染色をつかさどった内染司(うちそめもののつかさ)が、天皇の補佐や、詔勅の宣下や叙位など、朝廷に関する職務の全般を担っていた中務省(なかつかさしょう)には宮中用衣服製造の監督をしていた縫殿寮(ぬいどのりょう)などが置かれた。

 まさに、織物、裂は天皇と一番近いところにあり、特別なものであったことがわかる。

 このように裂の歴史を辿ると、掛物における表装は特別な意味合いを持っていることがわかる。さらに茶室の中を見渡すと、裂を使用した道具が他にあることに気づく。道具ではないが、畳の縁も裂を使っている。昔は畳に座ること自体、身分のある人しか許されなかったが、縁によって身分が決められていた。一番馴染みがあるのが繧繝縁、お内裏様とお雛様が座っている畳だ。この縁は天子さまが座る特別なものだ。京都に残っている唯一の公家屋敷である冷泉家には当主が座る、客人を招く部屋は高麗縁という丸門が入っている畳、使用人や付き人の控える部屋は無地の縁と、身分によってわけている。

 『松屋日記』には
「備前肩衝に名を布袋と利休のつけたるは、袋白地の小紋の金欄に大たるを、扨々(さてさて)過分過ぎたる袋とて布袋肩衝とつけし也」
とある。利休は侘びた備前の茶入に、あえて華やかな金襴の袋を取り合わせた。金襴を身につけるには備前には過ぎた袋ということで布袋となづけたという逸話も残っている。

 ではいつ頃、茶入に袋が添えられたのか?茶入は中国からの舶来品である。そもそも何に使っていたのかよくわかっていない。恐らく薬器のたぐいだっただろうと想像されてるに過ぎない。南方録を読むと、茶入に袋が添えられるようになったのは足利義教、義政の頃だと書かれている。

 現代人は壷を単なる保存ための容器と考えている。しかし古代以来、瓶・甕・壷は本来呪術に使われてきたものだ。壷には霊、魂をこめる働きがあると信じられてきた。古くは死者を葬った甕棺・今日でも骨壷など、壷は死と密接な関係がある。

 一方、壷は食物を蓄えるなど他の用途にも使われる。その場合そのまま使うことは出来ないので、底に小さな穴をあけたり、白布で巻いたりと全く別の物に転化させる術が施されたと云われる。

 茶壷の場合は口に覆われた錦だ。壷のままでは、聖なる茶室に持ち込むことは出来ない。そこで錦を被せることにより、死の器から聖なる器へと転化させた。茶入も同じだ。茶入は小壷とも云われる。裸のままでは使えない。茶入もまた仕覆の中に納めることにより、点前で使うことを可能にしたのだ。

 現代では裂は鑑賞の対象となっている。小堀遠州の文龍帳(もんりょうちょう)をはじめとする裂の端切れを集めて一冊の帳にしたものも伝来している。松平不昧が1789年から編纂した「古今名物類聚(ここんめいぶつるいしゅう)」の名物切の部が成立して、独立して賞翫されるようになったと思われる。

2014年8月4日月曜日

茶の湯で哲学する〜あかり〜

本日のテーマは「あかり」。

 ”あかり”と言うと茶室の窓を思い浮かべる人が多いだろう。
自然の採光を採り入れた舞台装置が茶室であり、窓の数は、茶室のしくみ、趣向に大きなはたらきをしている。現在、東京国立博物館にある宗和好みの茶室、六窓庵、また京都・金地院、遠州好みの茶室は 八窓の席と呼ばれている。いずれも、小さい茶室に小さい窓を多く切り、窓の数が茶室の呼び名となっている。

 一般的に亭主の座る点前畳の周辺には、正面に「風炉先」窓があり、左側には「掃出窓」がある。いずれも客畳にある窓よりも低い位置に造らている。当然、手元を照らすためであると想像できる。薄暗い室内で亭主の手元が明るくなるような工夫がされているのだ。

 茶室の窓には客畳に設けられている窓がある。これは客が座った状態で、それより高い位置に窓が切られていることが多い。夜会の場合、障子に人影が映らないようにとか、俗説として外から槍などで突き刺されないためとか書いてあるものもあるが、手元の光と外から照らす光が客で遮られることなく室内を照らす工夫がしてあるのだろう。

 窓の造りには2種類あって、下地窓と連子窓がある。下地とは壁土を塗るための木舞(こまい)のことで竹で十文字で細かく組んである部分でこの部分を塗り残した窓のことをいう。国宝待庵が有名だ。一方、連子窓とは窓の外側に直径二センチほどの白竹の格子を打った窓のことを云う。

 床の間にも窓がある。床の間の左右に小さい窓を作る場合もある。これを墨蹟窓、あるいは花明窓とも云う。

 屋根の傾斜をそのまま見せる駆け込み天上に「天窓」または『突上窓』を切ることもある。これは暁や月明かりを茶室に取り入れる工夫とされているが、今は形だけ残して障子を入れて電灯をいれたりしてるところも多い。

 炉中にも”あかり”がある。炉中の“あかり”というのは、神との関係抜きには語れない。火には二つの役目があり、あかりとしての火、もう一つがものを焼く火、つまり熱源としての火である。そしてケガレを払うという呪術的な面を常に持っているということだ。

 火を囲むというのは洋の東西に関わらず、火は人と神を結びつけるものであり、人と人を結びつける。茶の湯の思想の原点なのだ。

 また、陰陽の思想もまた“あかり”の一つといえる。茶会の流れにおける陰陽は、前半が“陰”、後半が“陽”である。その演出のために、昼の茶事では前半は窓に簾をかけ、後半、お客に濃茶が行き渡り、中水をする頃、窓にかかっている簾を順番に巻きあげていく。

 夜の茶会には”あかり”が必要だ。行灯、短檠、手燭などがそれにあたる。月夜の自然の”あかり”もこれに入れていいだろう。”あかり”を灯す照明道具にも陰陽がある。行燈は火のともる周囲を枠でかこみ、それに紙を張り中に火をともすから間接照明になり、短檠は燈火をそのまま見せている。それで行燈は陰、短檠は陽の燈火ということになる。

 手燭台に至っては客にもその心得が求められるなど、火を使う茶会は難しい。それ故”あかり”に関する道歌が多く伝えられている。

「灯火に陰と陽と二つあり 朝は陰に夜は陽としれ」

灯火、つまり灯りにも陰と陽の二種類ある。夏に行われる朝茶などは、次第に明るくなってくるので灯火は暗くしておいてもよい。つまり、陰である。反対に夜の茶会は、夜も更けていくということで、短ケイの油も充分に、明るくするように心がける。つまり、陽と云うことになる。

「夜籠(よごめ)には数寄屋のうちも行燈に 夜会はいづれ短檠としれ」

夜籠(よごめ)とは夜通しする茶会のことを云い、夜会とは所謂、夜咄(よばなし) 厳冬の夜に行われる茶会のことを云う。夜籠の茶会の時は、行灯を用いて、部屋の中、廊下など明るくする。夜会の場合は、短檠、裸の灯芯を出したものを使う。夜の茶会は亭主も客も相当な達人でないと成立しないとされ、秘伝中の秘伝ともされている。

「いにしえの夜の床には掛物も 花もなきとぞいいつたえなり」

昔は床には短檠のわずかな灯火だけであったため、掛物の文字も読みにくい。花を生けても、花の影が壁に映ってしまうなど、不都合なことが多いので、掛物も花もなくてもよかったようだ。織部の時代になると、白い花ならば生けて良いということになった。掛物や花の代わりをしたものは、砂張の盆に石を置いて白い撒き砂をした”盆山”や青磁の鉢などに入れられた石菖であった。

 遠州が上田宗古に宛てた『夜会の習の事』に「一夜の数寄は昼より心持あること也。心静にさはがしくなき様にあるべし云々」と、夜会の心得を記している。ただ、夜催す茶会を夜会と云うのではないのだ。夜会の習こそが秘伝中の秘伝であり、夜会、夜咄しの茶事は亭主も客も巧者でなくてはならいため、誰もが容易に出来るものではない。

 本来の夜会はすべての“あかり”をシャットアウトしたところから始まる。つまり、障子窓をはずし、木戸を入れて風が隙間からはいらないよう、あかりがもれないよう前日から水打ちをして、木々の隙間もなくしておく。さらに、水屋の者は大変だ。茶席の中に灯りが漏れないよう、最小限の灯りで仕事をしなければならないからだ。遠州流では茶室の中で蝋燭の芯を切ったりしない。必ず水屋に下げてから切る。常に中の様子を感じながら、阿吽の呼吸で交換しなくてはならない。蝋燭を使うということは、煤も当然出る。終わる頃になると手に付いた煤に気が付くことになる。

 茶道望月集に「先風炉の時、路地第一の心得は可有。朝の客とて風炉のに限りて夜込と言事はなし・暁は蚊多くて難儀也。夜咄・夜込も本式の客にはなき事也」とある。

 現代では冷暖房完備の茶室もあり、また虫除けクッヅも多くあり、昔ほど虫に悩まされることは少なくなったが、それでも夏の茶会は虫対策が大変だ。当然、夜咄や夜込のように、”あかり”が必要とされる茶会は風炉の季節(5月〜10月)にはしないのが習いだ。陽が落ちている方が涼しくてよさそうだが、明かりに誘われて虫たちが寄ってきて茶会どころではなくなるのだろう。”あかり”が必要となる茶会は、虫たちがいない冬の時期ということになる。

”あかり”はたんに照明、熱源の道具ではない。今日では現代の”あかり”のお陰で誰もが一年中24時間お茶をすることが出来るようになった。しかし、その代償として茶の湯の根本思想である”あかり”が消えた。

2014年8月3日日曜日

茶の湯で哲学する〜触〜

毎月1回、日本橋・茶友倶楽部空門で空門サロン「茶の湯で哲学する」を開催している。その日のテーマは前回の聴講者からのリクエストに応じて決め、私の基調講演の後、皆で意見を出し合いながら様々な角度から茶の湯を考えていこうという参加型のサロンである。今月で40回目を迎えるロングラン講義だ。

記録もかねて当日の基調講演のダイジェストをランダムにブログに挙げていきたいと思う。

今日のテーマは「触」

茶の湯は五感で楽しむものとよく言われる。五感とは「視覚,聴覚,味覚,嗅覚,触覚」のことだ。視覚は茶の湯の中で一番重要視されている感覚だろう。掛物、花、諸道具、設え、景色等々、様々なものが眼を楽しませてくれる。さらに昔から言われているように茶人は目利きでなくてはならない。茶人として生きていく上での最低条件である。さらに目明きという言葉もある。視覚的に見ることだけでなく、心眼という心の目も開かなくてはならい。

二番目の聴覚。茶の湯には様々な音に満ちている。しかし、茶室の中は静謐でなければならない。昔は釜の蓋を蓋置に置く音、茶碗を畳に置く音、茶杓にて茶碗の縁を叩く音、これを三音と云って許される数少ない音であったという。(これは「音」と云うテーマでも哲学したので後日改めてアップさせていただく)

三番目の味覚。舌で味わう。それはお茶の味であったり、お湯そのものであったり、さらには料理やお酒であったり、現代の茶事ではこの感覚が喜ばれることが多い。

四番目の嗅覚、鼻で聞き分ける。それは香や茶の薫りであったり、あるいは露地の緑の薫りかもしれない。

そして最後に今日のテーマである触覚。手で触れて感じる。茶の湯ではこの五感を大切にしてきた。

さらには六番目の感覚、実はこれが一番必要なことかもしれないが、心の働き、作用が重要になってくる。時にはインスピレーション、勘、直感、霊感だとか、人によってはいろいろな言葉で著される。この第六感が、人間の本能的な感覚、五感により強く働きかけ、心の動き、いかに心を通わせるかによって茶の湯というものがより豊になってくるわけだ。普段生活していると、この五感、あるいは第六感をふるに働かせる機会が大変少ない。というよりも意識することはほとんどない。さらに、その五感さえも危うい人たちが多くなっている。それらを呼び覚ます茶の湯というのは、文化を継承するということ以上に現代人に必要なものかもしれない。

さて、今日のテーマである「触」。触れるということは、ものに触れるというそのものの意味と、ものに触れて感じるという二つの意味が含まれている。当然茶の湯では後者ということになる。茶席の中でも、茶入、仕覆、茶杓、茶碗の拝見等々、客のリクエストに応じてさまざまな場面で道具に直接触れる機会がある。

多数の人たちが集う大寄茶会でも、最低限誰もが茶碗で飲むという機会は均等に訪れる。それは手にとる感覚もあり、口に触れる感覚もある。身体の一部が道具に触れることによって、さらに道具を身近に親しく感じるようになるわけだ。

触覚というのは茶の湯においては一番最後に取り入れられた感覚ともいえるだろう。茶の湯の歴史を紐解くまでもなく、室町将軍家を中心に中国から様々な絵画、墨蹟、陶磁器類が入ってくる。これらが東山御物として茶の湯の原型となる。これらの宝物は鑑賞、つまり視覚に応えるものであったが、特別な身分の人でなければ触れることはもちろん、見ることさえも出来なかった。

茶の湯が爆発的に流行した理由の一つが「触れる」ことである。これまで高貴な人たちの占有物であった名物と称された茶道具を、室町将軍家の衰退にともなって武家だけでなく庶民も手にとって拝見出来るようになっただけでなく、さらには自分の所有物することが可能となったのだ。

AKB商法の一つと云われる握手会は、雲の上の存在で遠くから眺めるだけだったアイドルを、触れるということでより身近なものに変えた。AKBの成功は、五百年以上も前の茶の湯の手法を採り入れた商法ともいえるのだ。

長闇堂と呼ばれた小堀遠州と親しくしていた袋師がいる。本名は久保権大輔。長闇堂と名付けたのは遠州であった。権太夫は方丈の庵を作って遠州に名前をつけて欲しいと頼んだところ、鴨長明にちなんで、「長明は聡明だから”明”とすれば、あなたは物を知らないから”闇”だ」というわけで長闇堂と名付けた逸話が伝えられている。茶の湯に傾倒した長闇堂は身分も低くお金もない。名物をはじめ様々な道具を拝見したいがどうしたら良いのかと遠州に相談したところ、袋師になりなさいとすすめられた。つまり、道具の袋を作る時はその道具が手元にないと作れない。袋を作っている時だけは天下の名物もあなたの手の内にあると云うことなのだ。

触れるということは、自分の意思とは無関係に自然に感じることが出来る視覚、聴覚、味覚、嗅覚とは異なり特別な感覚だ。触れるということは自分の強い意思が必要となってくる。この触れてみたいという心からの叫び、欲求が伴って茶の湯がさらに昇華されるのだ。



2014年8月2日土曜日

茶と禅 その2

 床の間の掛軸は昔も今も重要な茶道具の一つだ。江戸時代以降、茶人たちの思想に大きな影響を与えた南方録には「掛物ほど第一の道具はなし、客・亭主共ニ茶の湯三昧の一心得道の物也、墨跡を第一とす、其文句の心をうやまひ、筆者・道人・祖師の徳を賞翫する也」とある。その精神は今でも受け継がれ、我々茶人たちが最初に床の間の掛軸に一礼する所以だ。

 墨蹟とは、もともとは唐宋時代の臨済宗の高僧の書のことを云った。 その内容によって「印可状(いんかじょう)」「示人法語(じじんほうご)」「道 号・庵号(どうごう・あんごう)」「偈頌(げじゅ)」「遺偈(ゆいげ)」などに分 けられる。そして、現代では「日本の禅僧の書」、鎌倉、室町時代だけでなく、江戸中期 の頃まで墨蹟と呼ぶようになった。

 さて、今日のように大徳寺の僧侶の掛軸を掛けるようになったのは江戸時代に入ってからである。そのキッカケを作ったのは小堀遠州のようだ。遠州は参禅の師でもある春屋に傾倒する。利休も織部も宗旦もしかり。 茶の湯者たちはある者は弟子となり、ある者は春屋と親交を深めていった。

 近衛家煕の『槐記』には「春屋は遠州がもてはやしけるにより、沢庵、江月と共に世上に流布す。宗和は大い嫌ひなり。何時も無禅が話に、宗和の申されし、今日も好き茶湯に行たり。何も出来たれども、例の坊主めが床にありてと嘲られしとなり」とある。

 事実、遠州は茶席に春屋の掛軸を記録でわかるだけでも41回掛けている。遠州以降、沢 庵、江月など茶人たちの間で大徳寺の僧たちの書が流行する。

 ところが、同時代の人物の書を掛けると不都合なことが起こる。相性いうか好き嫌いというか極めて人間的感情に左右されてしまう。茶人たちに影響を与えた春屋であったが、春屋嫌いという茶人もい た。金森宗和だ。茶会で春屋の書に出会った宗和は「例の坊主めが 床にありてと嘲られし」とある。”例の坊主め”とはなかなか辛 辣だ。

 それ故、南方録に「筆者・道人・祖師の徳を賞翫する也」とあるように、床の 間という客よりも一段高いところに掛けて頭を下げさせることから、亭主はよくよく当日の客組にも気を使わなければならない。だから何が書いてあるかよりも、誰が書いたのかが大切なのだ。

 現代は大徳寺の書を第一とする風潮となっている。

2014年8月1日金曜日

流れも早き月日なりけり〜茶と禅〜

月日の流れは早いもので、私が茶の湯の道に入ったのが26才の時。実は今日8月1日で27年目を迎える。家元の所で見習い期間3ヶ月を経て、この道でやっていくかどうかを尋ねられ正式に内弟子兼秘書としてスタートしたのがこの日ということだ。

茶の湯三代宗匠と称される千利休も古田織部も小堀遠州も天下一として世に認められるのは人生の晩年。利休64才、織部67才、遠州58才の時。まだ50を過ぎたばかりの私が茶の湯を大上段に語るには早過ぎるということはわかってはいるものの、今の私の茶の湯への思いを残しておくのも弟子をとっている者の使命と考え、取り敢えず1年限定でこっそりとブログを再開する。

さて、ご縁があって今年からお寺で茶道を教え始めた。日本の茶道の起こりから仏教と茶道は深い繋がりがある。これは鎌倉時代栄西禅師が抹茶を持ち帰ったという伝承と、室町時代、奈良・称名寺の村田珠光が大徳寺の一休禅師に参禅し侘び茶(草庵の茶の湯)を創成したという逸話によるところが大きい。爾来、茶禅一味の言葉があらわすように、茶は禅から起こったものであり、茶と禅は同一であると思われている。

そう、思われているのだ。先だって同級生から史学科の落ちこぼれの私に対して、「どんな言い伝えでも、史実か後世の人による創作か考え込んでしまうのが史学科の悪い癖。それを誰彼構わずに喋くるのは、もっと悪い癖」と揶揄されてしまったが、それにもめげず書き連ねていきたい。


実は茶と禅が強く結びついたのは江戸時代になってからである

昔から禅宗と茶の湯が同一ならば様々な矛盾が生じてくる。その一つがキリシタン茶人の存在である。16世紀来日した宣教師たちはキリスト教布教のため宿敵仏教界と対峙しなければならなかった。そして彼らを悪魔の化身のごとく罵倒する。もし、当時茶と禅が同一ならば、いや百歩譲って同一と言わないまでも禅宗の影響を受けていたのならば、まさに茶の湯も宣教師たちの攻撃の対象であったはずだ。しかし、現実は違った。

宣教師たちは日本人の中に溶け込むために、茶の湯の重要性を認め、とくにヴァリニャーノはその手引きまで与えている。キリスト教布教の一つの指針が、日本の文化、古来からの思想を尊重し、同化をはかることにあった。その一つが茶の湯の利用であり、キリストの教えを広める一助としたようだ。

つまり、私たちが思っているほど当時の茶の湯は禅宗の影響を受けていないことになる。茶の湯は諸宗教の境界に存在していたのだ。

(続く)


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