本日の茶の湯で哲学するテーマは「戦国の茶」。
名器は一国一城に値す
戦国の茶を語るのに必ず引用されるエピソードだ。
織田信長は名物狩りを行う。名物とは、室町将軍家が集めた唐物を中心とした美術工芸品のことである。後の時代には大名物と称するようになる。将軍の宝物だから町人や大名、小大名も含めて所持するべきではない。とくに京都、堺、奈良の町人から名物を半ば強制的に買いあげた。中には信長に取り入ろうと献上した者もいた。
名物を集めるために、鑑定したり指図したりする茶の湯に長けた人物が必要だ。それが今井宗久や津田宗及、そして千利休などの堺の商人たちであった。しかし、その中心は信長の家臣であった松井友閑である。彼の家は代々足利将軍家に使えた家であったが、義輝が久秀に暗殺された後、信長に使えるようになった。一般には堺の商人たちが茶の湯を主導したように思われがちであるが、この頃の利休はまだ豪商としても、茶人としても、ナンバースリー、ナンバーフォー以下の存在でしかない。松井友閑というナンバーワンが信長の茶頭として信長の茶会を取り仕切っていた。
信長は、茶湯御政道といわれる政策をする。茶の湯を政治的に利用した。信長は功績があれば、茶の湯を家臣に許し、名物も授ける。名のある家臣たちがこの栄誉を受けることになった。
しかし「名物は一国一城に値する」と言われても現代人は理解出来ない。
武士が茶の湯者として登場するのは、町衆たちよりもはるかに遅い。松屋久政の茶の湯の記録「松屋日記」には、書き始めてから約30年間その付き合いも町衆たちが中心であった。永禄4年(1561)に至って初めて武士の名が登場する。それが松永久秀だ。
久秀は、大和の国を支配した戦国大名で松永弾正としてその名が知られている。彼の出生は謎に包まれているが、早くから茶の湯をしていたことは知られている。
初めは畿内一帯を収めていた三好長慶に仕えたが、やがて三好家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に室町幕府第13代将軍・足利義輝を永禄の変で殺害し、畿内を支配した。しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その時に名物の「つくもがみ」を献上した。同道したのが堺の町人、今井宗久。彼もまた、隠れ無き名物といわれた松島の茶壷と紹鴎茄子茶入を献上する。
天下一の名物がこの頃から信長のもとに次第に集まってくるようになった。その後信長に反逆して結局敗れる。信長にこれだけは渡すのも御免被ると爆死した時に手にかかえていた釜が、名物の平蜘蛛釜と伝えられている。久秀の茶の湯への執心ぶりを雄弁に物語っている。早い時期での久秀の登場は、彼もまた諸国を渡り歩いた連歌師系統の町衆出身であったと考えるのが妥当だろう。
また、利休当時の茶の湯を知る史料としてもよく取り上げられる「山上宗ニ記」には唯一、武将で数寄者であると登場する人物がいる。それが三好実休(義賢)だ。三好実休は先の三好長慶の弟にあたる。36才で戦死するが、武野紹鴎や利休に茶の湯を学び、大名物の「三日月」の茶壷を所持していたと伝えられるなど実休だけでなく三好一族は茶人としても知られていた。そうすると松永久秀が三好氏にどのように取り入り実力をつけていったのか、想像出来るというものだ。茶の湯がはたした役割は大きい。
武士が歴史の表舞台に立ったのは平清盛からだ。平氏が公家に代わって天下を取れたのは、軍事力でも日宋貿易で蓄えた経済力でもない。
神話によれば神武天皇から現代まで続いている天皇家は軍事力は持っていない。さらに公家たちもそうだ。公家たちの日常をみてると、野に遊んだり、歌を詠んだり、蹴鞠をしたり、現代人の目からみると、遊んで暮らしてるのかと思ってしまう。しかし、天皇家でも公家でも必須の教養とされてきた。
特に和歌の力によるところが大きい。言霊を通して神と交わり、人と交わる。和歌こそが国や人を動かす原動力であったのだ。
平氏が滅んだのは、武士の本分を忘れて公家化したからだと云う説もある。これは大きな誤りだ。何の力も持たない公家が政治の中心に要られたのは、神と交わることができる手段であった和歌を詠めたからに他ならない。平氏も公家化したからこそ天下を治めることが出来た。まだ、神が生きていた時代である。
その後、武家も歌は必須になる。戦国武将である細川幽斎の「武士の知らぬは恥ぞ馬茶湯はぢより外に恥はなきも」は、武士の心得を詠った歌としても有名である。茶の湯とはお茶を飲むだけではない。そこに公家文化、特に和歌の心得は必須であった。
日本の場合、古来から国を治める力というのは、軍事力や経済力よりもソフトパワーが重視された。現代は軍事力や経済力優先だ。歴史を学ぼうとしない愚かな人たちが多いことか。
平氏の時代を経て、武家が統治する時代が続く。その統治の後ろ盾は朝廷から与えられる官位であった。しかし、国が乱れてくると勝手に官位を名乗り、名乗らせたりして有名無実化していく。それが室町末期だ。武家が武家たる確たる証明が出来なくなった。
武家の証明とは、身分、血脈のことだ。そしてそれを裏付ける官位であった。平氏、源氏の本流は名門として認識されてはいたが、多くの地方の豪族、地侍などその身分は保証されるものではなかった。それは町人たちも同様であった。
珠光の名言に、「藁屋に名馬つなぎたるがよし」
粗末な座敷にこそ名物を置くことがよいのだ。趣、なおもって面白いというもの。わびたる ものと名品との対比の中に思い がけない美を見出すところに珠光のわび茶の神髄がみられるということで解釈されることが多いようだ。
戦国の茶は利休の代名詞でもある「侘び」がクローズアップされる。しかし、この時代の侘びは極めて現実的だ。それを裏付けるように小堀遠州の茶の湯伝書には「むかし茶湯に上中下の三段をわけたり」とある。
•上は其身すぐれ、或其の身に財あれば、名物所持ある故上とす。
•財あれども名物の道具不足なるか、あるいは道具あれどもその身まづしければ、是を中とす。
•下は財無、道具もまどしき故に下とす。これを侘といふ
「身分も高く、財力もあり、名物を持っている茶人を"上”。財力があっても名物の所持が少ない、名物を持っていても財の乏しい茶人は”中”、財も無く、名物も持てない茶人を”下”、つまり”侘び”と云っていた。
また「よき壷所持の人は人に御茶可申といひ、よき壷不持の侘は御茶可申とは云わざるなり」。昔は、名物を持たなければ茶とは認められなかったらしい。
今で言うと一流、二流、三流の三段階。身分も高く、お金持ちで、そして名物を持っている人が一流の茶人。お金は持っていても名物道具を持っていない人、道具を持っていても身分が低い人は二流茶人。そして、お金もなく、名物道具も持っていない人は三流茶人。そして三流茶人を侘茶人といった。まあ、名物一つも持っていないようじゃ、一端の茶人と名乗っちゃいけねえなあと言うことだ。
戦国時代は、中世から近世の過渡期でまさに混沌とした時代でもあった。その上、まったく価値観が異なるキリスト教文化が入ってくる。東と西の文化の出会いは中世の終を後押しした。
しかし、天皇を中心とするヒエラルキーは現代まで日本にとって絶対的なものだ。この過渡期はその中で身分的に虐げられていた人たちが、這い上がることが出来る最後のチャンスでもあった。
身分が違うと、日常生活でも様々な制約があり差別された。中世の身分差別は根深い。経済的に裕福であっても、大名として国を支配していても、出自に関しての劣等感は常につきまとった。彼らの劣等感を拭い去るもの、そして人としての証として利用されたのが「名物」であったのだ。それは新興の武士達も町人たちにとっても、眼に見える、世間に喧伝出来る絶好のアイテムであった。将軍家と同じ宝物を持てる身分になった。被差別からの脱却が、茶の湯に執心した理由の一つとして理解できる。
天皇家でさえ、その継承の証が求められる。それが三種の神器なら、人としての証が名物であった。武士の間では下克上といわれ、どこの馬の骨かわからないような人物までもが一国一城の主にもなれた。秀吉はまさに出世頭ということになる。
江戸時代になると身分が確定する。秀吉のような出世はありえなくなる。信長でさえ、町人に残していた名物茶器をも家康の時代になるとほとんどが武家のものになった。
しかし、証がなくなったかというとそうではない。徳川の治世では大名が家督を相続するさいに、将軍家から名刀や茶器が与えられるようになった。いわゆる拝領品だ。しかし、与えられた大名が亡くなると、それを将軍家に返さなくてはならない。一代限りのものであり、刀や茶器が正当な大名の継承者であるという身分証明書、免許証ともなったのだ。
幕藩体制が確立すると人間関係と人間のあり方について目を開かせ、身分秩序を正当化するために、儒学、とくに朱子学が幕府の学問として思想として影響を与える。茶の湯もしかり。人々が名物を求めてはいけない時代になる。足ることを知る、侘び茶の精神がもてはやされる。「名器は一国一城に値す」逸話も、国を継承する証となった名器が理想化されたに過ぎないのかもしれない。