2014年8月27日水曜日

茶の湯で哲学する〜境界〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「境界」

 茶の湯は境界で行われる儀式である。

 茶道の精神の一つが「おもてなし」。日本の「おもてなし」の起源は、祭りを代表するように神さまをお迎えすることにある。そして「おもてなし」をするためだけの特別な空間が作られた。日常生活の場ではない非日常の場所、つまりキヨメられた空間を作るのだ。そこには仕切られた空間に境界が張り巡らせた。その究極の場所が神社なのだ。

 日本人は古来から境界を大切にしてきた。境界はこの世と異界をつなぐ場所と考えられ神聖視されてきたのだ。そこでは世俗との縁が切れたと考えられ、誰もが自由に出入りが出来た。それ故、現代では薄れつつあるが、境界は汚してはいけないという共通意識、タブーが生まれた。

 茶の湯も茶室という特別な空間が作られ、日常と非日常を明確に区別した。茶室はもともと囲いと言って、広間の片隅を屏風で囲ったことから始まった。境界を作ることで、日常と非日常の場所をわけたのだ。身分の上下に関わらず一座建立出来たのも、茶室が境界故なのだ。

 天正15年(1587)10月1日に京都北野天満宮境内において、関白太政大臣豊臣秀吉主催の大茶会が催された。それに先立って、告知されたのが次の高札である。

一 北野の森において向こう十日間、天気次第で大茶の湯を催し、御名物どもを残らず揃えて数寄執心の者に見せる。
二 茶の湯執心とあらば若党・町人・百姓以下によらず、釜一つ、つるべ一つ、呑物一つでもよい。茶のない者はこがしでも差し支えないので持参すること。
三 茶の湯の座敷は北野の松原であるから、畳二畳敷きで事が済む。ただし、侘び者は、地べたでも筵でも良い。着座の順序など自由。
四 日本のことは申すに及ばず、数奇の心がけのある者は、唐国の者までも罷り出よ。
五 遠方の者も参加出来るよう十月十日まで開催する。
六 このように仰せ出されたのは、侘び者を不憫に思し召されてのことであるから、今度罷り出ぬ者は、今後こがしをたてることも無用である。罷り出ぬ者の所へ参ることも同様に無用と心得よ。
七 特に侘び者とあらば、誰々遠国の者にかかわらず、秀吉公の御手前で御茶を下される筈である。

 茶道史での評価は多数の名物道具が使われ、茶席の数も800を数えたと伝えられるなど秀吉の権勢誇示のためとの位置づけている。10日間行われる予定だった茶会も、1日で中止となった。中止の理由は肥後での一揆のためとか諸説ささやかれるがその真相は謎である。

 しかし、この茶会の最も注目すべきところは場所なのだ。北野神社の境内で行われた北野大茶の湯は、茶の湯のアジール(聖域)性、境界を考える上で興味深い一大イベントであった。

 秀吉は利休と対比して道化として捉えられることが多い。物語としては面白いが、事実はまったく違う。秀吉ほど古来の因習、慣習に敏感で畏敬をもって接した為政者はいなかった。茶会が開催された北野天満宮こそが茶の湯の深層を知る上で重要であり、この地を選んだ秀吉の信仰の深さを示すものである。北野神社境内でなければ、最初からこの茶会は成り立たなかった。

 中止の理由もアジールの観点から考察するとわかりやすい。あくまでも想像だ。私は境内を穢す何らかの事件が起こったのではないかと考える。例えば境内内で動物の死骸が見つかった。全国から様々な階層の人たちが集まったためイザコザが起り血で汚してしまった等々。事件は小さかったかもしれないが、境界が穢れてしまった事実は、秀吉の逆鱗に触れたのだ。 

 4年後に秀吉が築いた京都を洛中洛外に隔てた御土居の存在もそれを裏付ける。御土居とは北は上賀茂から鷹ヶ峰、西は紙屋川から東寺の西辺、南は東寺南側の九条通、東は鴨川西側の河 原町通まで、南北約8.5キロ、東西約3.5キロ、総延長約22.5キロにも及んだ土塁(城壁)のことである。北野神社も洛中洛外の境界にあり、その西側境内を分け隔てるよう御土居が造られた。北野天満宮の御土居も、穢れてしまった境内を嫌った秀吉が境界の外、つまり洛外に取り除くために造った境界とも考えれる。

 茶室は境界で仕切られたアジールだ。それ故、茶室は常に清めれていないといけないのだ。

2014年8月26日火曜日

茶の湯で哲学する〜茶の湯〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「茶の湯」。

茶道は元来茶の湯と云った。

 茶の湯とはただ湯を沸かし茶をたてて 飲むばかりなることを知るべし
 
  利休が茶の湯の根本理念を説いた和歌として知られている。総合芸術と云われるように、茶の湯の持つ領域は広く、建築、造園、美術工芸、食文化も包含したものである。さらに茶の湯は、ここに思想、哲学がは入ってくる。自分自身を磨き、向上させ、さらに芸術性を加味させねばならぬ。

 しかし、茶の湯者と云うとけっして完璧な茶人ではなかった。

 茶の湯者と数寄者は其の称同じ様にて其の様大いに異なれり。譬えば、茶の湯者は淵のごとく、数寄者は瀬に似たり

 これは細川三斎の「茶の湯覚え書」の一説。茶の湯者と数寄者の違いを淵と瀬に例えて説明したものだ。淵は川の流れが滞って深く水をたたえているところである。しかし、表面は澄んでいるように見えるが、実は水がよどんでいる。瀬とは浅い流れのことで、塵埃などは留めていないまことに清らかなところである。

 茶の湯者は淵で、数寄者は瀬なのだ。

 茶の湯者は、招く人によって態度を変える。自分より偉い人を招くときは、茶も料理も贅沢を尽くし、名器を出して歓待する。しかし、侘者、つまり自分より身分の低い者の時は、等閑のもてなしで茶を濁す。己の道具がいかに価値が高いかを自慢し、自らを数寄者と称する。つまり、茶の湯者は淵であり、外見は立派に見せても中身は傲慢で、水底にたまる塵埃のようなものなのだ。

 一方、心の中も清廉で身分によって差別することなく、誰にでも同じようにもてなす。贅沢もせずモノに執着することもなく茶の湯をする者を数寄者と云い瀬と例えた。瀬は水が浅く明鏡のごとく澄んでいる。また、水底に塵埃も溜めることもない。

 茶の湯を志す人は、清浄な心をもち、欲心をすて,茶の湯本来の姿を見極めていかねばならないのである。茶の湯者とはまだまだ未完成の修行過程の段階なのだ。

 武野紹鷗が門弟に示したと伝えられる茶の湯の心得にも茶の湯者と数寄者の違いが明確にわかる。

茶の湯者の茶人めきたるは、ことの外にくむこと

数寄者といふは隠遁の心第一に、侘びて、仏法の意味をも得知り、和歌の情を感じ候へかし

 茶の湯者が茶人ぶるのは、ことさら軽蔑すべきことである。ここでの「茶人ぶる」とは先に述べた数寄者と称することである。数寄者は隠遁の心を第一に、侘びて、つまり贅沢もせず、仏法に帰依しその心を実践し、和歌の情趣を理解する人のことをさした。

 茶を志すも茶の湯者とは俗人のことなのだ。現代茶道も聖俗あいまったところがあるのも致し方ないところである。それが茶人のランク付けにもつながる。山上宗ニは次のように述べている。

目利ニテ茶湯モ上手、数寄の師匠ヲシテ世ヲ渡ルハ茶湯者ト云、
一物モ不持、胸ノ覚悟一、作分一、手柄一、此三箇條ノ調タルヲ侘数寄ト云々、
唐物所持、目利モ上手、此三箇モ調ヒ、一道ニ志深キハ名人ト云也、
 茶湯者ト云ハ、松本・篠両人也、
 数寄者ト云ハ、善法也、
茶の湯者ノ数寄者ハ古今ノ名人ト云、
 珠光并引拙・紹鷗也、 

 茶人たちには昔からランク付があった。道具の良し悪しを見分ける目を持ち、茶の湯も上手、数寄の師匠をして生活している者を茶の湯者。これといった道具も持たず、茶道に志す覚悟、工夫、そして手柄(手並み)、この三つを持っている者を侘数寄。唐物、いわゆる名物を所持、目利きも茶の湯も上手、茶の湯をする上で持っていなくてはならない覚悟、作分、手柄も調い、茶の湯の道に志深い人は名人と云われた。

 つまり、茶の湯者、数寄者、名人と茶人たちは評価したのである。そうすると我々は茶の湯をするのも、数寄者と云う次なるステージを目指しての人生の修行ということになる。人として未熟故に茶の湯をしなくてはならない。

 小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て修行得道する事なり

 小座敷の茶の湯はまず、第一に仏教の教えをもって修行し悟りを開くものである。利休の秘伝書とされる南方録の語るとことである。建物のりっぱさや、食事の珍味を茶の湯の楽しみに思うのは俗世間のことで、家は雨がもらなければよい、食事は飢えぬほどあれば十分である、これが仏の教えであり、茶の湯の本当の心であると説く。

 しかし、現代数寄者というと些か意味合いが異なる。

 おらが茶の湯はそんなものではない。茶の湯は本来趣味である。無論茶の湯に依って世間に様々な好影響を及ぼす事があるかも知らぬ。そんな副産物を眼中に入れるのは既に第二義に堕ちるものである

 茶の湯を修行と説いた古人の教えに真っ向から反旗を翻したのが高橋箒庵であった。彼は新聞記者をへて三井銀行 その後51才で実業界を引退・名物茶器の記録、大正名器鑑、数寄者の記録、東都茶会記を著すなど近代の茶の湯の発展に大きな功績を残した人物である。
 
 「茶の湯は趣味である」と宣言した箒庵をはじめ、明治・大正を生きた実業家たちの茶の湯は有り余る財力を背景に茶道具蒐集に走った。そして、彼らのことを近代数寄者と称した。そこには瀬を踏むこともなく、淵に陥ってしまった茶の湯があった。

2014年8月25日月曜日

茶の湯で哲学する〜花〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「花」。

花は野にあるように

 花を生ける心得としてしばしば引用される利休の言葉だ。野にあるように生けるには花を知らなければならない。『槐記』には次のように述べられている。

 凡そ花を生るには、必ず先づ花の面を知ること第一なり。必しも面を前にせよと云事には非ず。脇を見ても、面を脇へしても、正を第一にして、面を知りて生るは好き也

 花に限らず森羅万象、そのものが持つ真の顔がある。花の顔、正面を知るということは、その花の性格を知るということだ。まずは花と正対して話をする。花に嫌われると生けるのもままならない。

 同じ花を生けるにしても、茶席で生ける花と華道の生け方は異なる。

 近衛殿遠江守殿を振舞被申候とて池坊専好ヲ御呼生花被申付候、扨遠州此花ハと御挨拶ニ、茶湯ノ心かつて不好者ノ入候由被申候

『桜山一有筆記』に述べれている。華道の名人がどんなに素晴らしく生けようとも茶の湯の心知らなければ相応しくない。

『茶道望月記』には次のよう述べる。

立花は随分花の色香の久しくたもつを手柄と習にしたる物也。茶事の花はただ其一盛りなるを賞翫感情とする有り

 茶の湯の花はその一瞬を大切にする。物の哀れと云ってもよいだろう。華道の花は基本的な形式が決まっているが、茶の湯の花は投げ入れの妙と云われるように自由である。決まった形がない。しかし、文字通り投げ入れてしまってはダメだ。自由だからこそ、自然の形に逆らわず、調和を崩さないよう繊細な心で生けなくてはならない。その心は、自然の中での茶会、野点の極意にも通ずるのではないかと思う。南方録に「定法ナキガユエニ 定法、大法アリ」と。

投花は跡のヒカへ専なり。客生は亭主の方へ、生は客のへ。をもく投るは悪しく。投花は織部殿より

 『茶道四祖伝書』によると、投花入は古田織部が始めたとされている。亭主が生ける場合は客の方へ斜めに生ける。客が亭主から花を生けることを所望された場合は、花の向きは亭主の方へ向ける。敬いの気持ちからだ。だから、客は床の間に正体して正面から見るのが礼儀だ。けっして覗き込んだり、斜めから見ることは控えるべきである。

 遠州は花を生ける極意として論語を引用した。

子曰く、質、文に勝てば則ち野なり。文、質に勝てば則ち史なり。文質彬彬として、然る後君子なり

 吉田賢抗の解釈によれば、”質”とは生まれたままの素朴な性質のこと、”文”とは美しい飾りのことで、学問をするに従って後から身につく教養をを云う。”野”とは粗野で田舎びたこと、”史”は知識はあるが誠実さに欠ける人を云う。質と文がいずれも優っても、粗野になったり、誠実さに欠けたりする。

 つまり、自然のあるがままの花の姿(質)に、人の心(文)が加わり両者が調和してはじめて花を生けることが出来る。己の茶の湯に姿があるとすれば、それは花の姿に違いない。続けて、『風雅和歌集の序』の一節を述べる。

 姿たかからむとすれば、その心足らず。言葉こまやかなれば、そのさまいやし。えむなるはたよれすぎ、つよきはなつかしからず。すべてこれをいふにそのことはり、しげき言の葉にては、のべつくしがたしむねをえてみずからさとりなむ

 しかし、姿に囚われ過ぎると、心が足りなくなる。技巧に走り過ぎると、嫌らしくなる。あまりに微笑むような姿は弱々しく、あまりに強すぎるのは親しみがもてない。この道理は、どんな言葉を使っても説明することが難しい。だからこそ自らが悟らなくてはならないのだ。

 『槐記』には花を生ける時の注意点が数々述べられている。

 花を生るる事を今の世には。曾て穿鑿なし、大方の人投入と云は、立華などのように、撓つ歪めるして入るる事でなし。枝の形を其儘に入るるを投入と云と覚へて居るは、大なる心得違ひなり。昔の人の生木生花の形を傷はずと云は、撓ぬこと歪めぬことに非ず。唯其木其草、其花其枝によりて、夫々に生れ付たる質のやうに、生付を傷はぬようにせよと云事なり

 花を生るに、花をむしると云うことあり。むしるにて、枝も花も格別に好くも悪くもなることなり

 茶道の言葉を素直にそのまま解釈してはいけないことが多い。”投げ入れ”もその一つだ。切ったばかりの枝や花をそのまま生けることが投げ入れではない。時には枝を撓めたり、余分な花や葉を落とす必要もある。それは一輪の花を生かすためただ。自然にある姿を常に頭に入れて生けることが大切なのだ。

 僅か数本のことではあるが、花を生けることは難しい。亭主の器量が試されるわけだから。花を生けるのも、歌を詠む時と同じ心持ちで生けなくてはならない。技巧だけにたよってはいけない。自分自身で悟ること、”心”が大切なのだ。その人の心が花の姿に現れる。

2014年8月23日土曜日

茶の湯で哲学する〜政道〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「政道」。

 茶の湯の歴史を振り返ると、信長以来政権交代と無縁ではなかった。政権交代により茶道も顔を変え、性格を変えてきた。

 信長の時代、秀吉の時代、家康以降の江戸時代、明治維新薩長藩閥の時代、明治23年第1回衆議院議員総選挙が実施された以降の政党内閣の時代、5・15事件以降軍閥が台頭した大政翼賛会の時代、戦後、昭和26年サンフランシスコ講和条約以降保守政治の時代、そして現代。茶道は時の動きに敏感であり、時の政権は茶道を利用してきた。

 茶の湯を最初に政治に利用した人物は織田信長である。畿内を平定した信長は、「名物狩り」により名物茶器を集め、家臣が勝手に茶の湯をすることを禁じ、茶会を開く許可や茶器を与えることを恩賞とするようになる。後の世に「名器は、一国一城にも値する」と云わしめた。茶の湯御政道である。

 細川幽斎の 「武士の知らぬは恥ぞ馬茶の湯 はぢより他に恥はなきもの」とは、ハードパワーとソフトパワーの両輪の重要性を述べたもとも云える。どちらが欠けても国は治まらない。闘わずして、己の価値を持って相手を魅了する力がソフトパワーである。茶の湯で云う「おもてなし」という言葉に置き換えることも出来るだろう。

 その精神を引き継いだのが江戸時代であった。武士、政治家にとって茶道の教養は必須であった。それは交際儀礼としては勿論、儒学思想を背景に、自らを律し、国を治める、家を守るための、武士としていきてゆくための哲学でもあったのだ。

 今から150年程前、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が水戸・薩摩の浪士たちによって暗殺された。有名な桜田門外の変だ。直弼の政治家としての評価は分かれるところだろう。安政の大獄のイメージがあまりに強く、厳しい評価も多い。しかし、彼は幕末最後の大茶人であり、真の政治家であった。直弼は今の政治家に一番欠けている覚悟力、対応力、決断力、そして理念を持ち続けた。それは部屋住みの頃から嗜んだ茶道が強く影響していると思われる。

 茶事は己が所業を助る道なるか故に、士農工商ともにまなびて益有る

 井伊直弼の『茶道壁書』の第一条に記された一文である。その奥書には、安政五年と書かれている。安政の大獄の始まった年、直弼が暗殺される2年前だ。その心は、直弼が部屋住みの頃に書かれたと思われる『茶道と政道』にあるようだ。

 上は己が身にたれりとする故に下をあわれみ、下は己が身にたれりとする故に上をうやまひたすく、富者たれりとする故にほどこし、貧者たれりとする故にあながちもとめず、是、知足の行はるる所

 国家あまねく喫茶の法行はるるときは、ここにしるすがごとく、上下ともに己が身を守り楽しんで、憂るものなく、仇するものもなからん

 己の不遇を嘆くことなく、足るを知ることこそ、太平静謐なる世を送る術であった。直弼にとって茶の湯は封建社会を生きるための智恵の源であり、「士農工商ともにまなびて益有る事」も、為政者として万民の不平不満を、政策で統制、弾圧するよりも、茶の湯の思想が広く行き渡っていればと云う懺悔と願いが込められていたのかもしれない。

 一方、「喫茶は独道の法にして、政道などに預るべきの器にあらず」とも述べている。しかし、その心は「上に喫茶嗜む時は其国に幸し、下に喫茶を嗜む時は、一人は一人、二人は二人など、政治の無事、助となるべし」とある。つまり、国中上下とも茶の道に入ればその国は平和が訪れるというのである。

 直弼の真の姿は平和主義者であった。士農工商、国中上下とも茶の道に入ればその国は平和が訪れると信じた井伊直弼。彼の理想は、権力ではなく文化力で国を治めようとしたのだ。若い頃に茶の湯を志してから暗殺されるまで変わらぬ信念であった。

 茶の湯を社会にどのように生かすかは、使う人の理念に負うところが多い。生かすも殺すも使う人によるのだ。直弼が暗殺されなければ、信長以来の茶湯御政道の復活はあったのか?信長と直弼の違いは、茶の湯の規制強化と門戸解放であった。

 現代の価値観から見ると愚民化戦略ではあるが、動乱を予兆させる世の中、幕藩体制を維持するための平和的手段が茶の湯の思想であったのだろう。国民皆茶を目指した直弼であったが、茶の湯は武家政治の終焉と共に明治維新以降、一気に衰退の道を辿ることになる。

 直弼はその後の茶道の行く末を見据えてか、忠告も忘れていない。

 (茶道は)快楽する道にて、行やすき道にはあれども、法中に邪道を説く者ありて、よく人を導く故にその説を面白しと、是に汲みする類も多く成行事、是は喫茶の不行ざるよりも、又、格別に嘆かわしきの至極なれ

 間違った茶道は世を滅ぼす、、、。

2014年8月22日金曜日

茶の湯で哲学する〜能〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「能」。

 珠光の物語とて、月も雲間のなきは嫌にて候。これ面白く候

室町後期の能役者、金春禅鳳の言葉だ。村田珠光が、月は満月で煌々と輝いているよりも、雲がかかって見え隠れしている方が好きだと言ったのに共感し、それを「面白い」と云った。茶の湯と能の共通の美意識として取り上げられるエピソードの一つだ。

「茶の湯」と「能」。この二つの芸能の歴史を振り返ると、共通の道を辿ってきたことがわかる。

 世阿弥の「風姿花伝」によると江戸時代までは「能」は「猿楽」と呼ばれた。その起源を次のように述べている。

 推古天皇の御宇に聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつては天下安全のため、かつは諸人快楽のため 六十六番の遊宴をなして申楽と号せしよりこのかた、代々の人、風月の景を仮つてこの遊びの媒とせり

 推古天皇の時代、聖徳太子が秦河勝に命じて、ひとつは天下太平を祈るため、もうひとつは世の人の娯楽のため、66番の芸を演じさせられ、申楽となづけたのが始めとされた。

 一方、茶の湯は山上宗二記に「夫茶の湯の起は、普光院殿(六代義教)、鹿苑院殿(三代義満)の御代より唐物絵賛等歴々集り畢」とある。ちょうど申楽が武家政権に認められ、次第に洗練されていく時代と重なっている。

 さて、世阿弥も昔から世に知られた人物と思われがちであるが、あくまでも伝説上の人物に過ぎなかった。その姿があからさまになったのは近代に入ってからだ。彼の著書が発見されたのが明治41年、今から100年ほど前にすぎない。幕末の大茶人井伊直弼が世に知られるようになったのも明治45年。「一期一会」「独座観念」の彼の茶道理念が世に知られるようになる。偏に茶道も能も武家文化の中枢であったがことがその背景にあった

 能は京都・奈良に多数存在した大和猿楽と呼ばれた 民衆の演劇集団の一つに過ぎなかったが、足利義満によって見出され武家政権に迎えられる。茶の湯も伝説によると、村田珠光が能阿弥の推選によって義政の東山山荘に召され,その茶道師範となり,珠光流茶の湯の極意を相伝したといわれている。

 能と茶の湯は庶民の一芸能に過ぎなかったものが、室町時代、足利将軍家によって社会的地位を上げ、江戸時代には武家の嗜みとして礼法として、身につけなくてはならない教養として広まった。そして、各藩は競って能楽師や茶頭を召抱えるなどして、藩主自らも研鑽に励んだのだ。茶会では茶道と能のコラボレーションも頻繁に行われた。茶会の後、拍子や能などの芸能が行われたのだ。

 武家にとっての能も茶の湯もその尤も配慮しなければならない対象は貴人である。

 申楽は貴人の御出を本とすれば

 貴人の御意に叶えるまでなれば、これ、肝要なり

と能も貴人の心に叶った演じ方をするのが大切であった。茶の湯もしかり。貴人をどのようにお迎えするかが茶の湯の礼法の一つとなったのだ。名物茶器のほとんどが将軍家、大名家のモノとなり、江戸時代の茶の湯は武家のリードのもと発展する。町人の茶の湯は家元制を背景に、稽古という新たな分野が確立され遊芸化の道へと進んでいった。

 能も武家の式楽となったことで、一般庶民とは縁遠いものになった。庶民たちの楽しみも、一年に数回しかおこなわれない勧進能や町入能など限られた機会となった。

 しかし、謡本の普及により全国各地に愛好者が増え、謡曲のさわりの一節を謡う「小謡」の流行により小謡本が刊行されたり、能の一部を装束をつけずに舞う「仕舞」の稽古のため仕舞謡の本も作られた。町人の間でも能も遊芸化していった。
 
 江戸幕府が滅び、明治維新となると大名から俸禄を貰っていた茶人、能楽師たちは生活の糧を失い、困窮を極める時代を迎える。その結果、多くの能役者たちが代々の技芸を捨てることとなり、能は壊滅的な打撃を受けた。

 明治維新以降、武家文化が否定される中根絶しなかったのは、庶民の間で茶の湯も稽古礼儀作法として、能も小謡が教養として学ばれ、その火が絶えなかったことが、その復興に繋がったものと思われる。

 このように武家社会を背景に茶の湯と能の密接な関係は、茶道具の銘からもみてとれる。高砂 翁 飛鳥川 俊寛 桜川 尾上 隅田川 竹生島 野々宮 羽衣等々、幽玄の世界を茶の湯に持ち込んだ。

  歌は茶の湯の根底をなすもので、和歌なくしては茶の湯は成り立たない。能も和歌は特別であった。

 まず、この道至らんと思はん者は非道を行すべからず。ただし、歌道は風月延年の飾りなれば、もっともこれを用ふべし

 つまり、「申楽の道でりっぱな役者になろうと思う者は、本職以外の道に手を出してはいけない。もっとも歌道だけは例外で、申楽に芸術性をもたせる手段であるから、しっかり勉強するのように」と述べている。

 茶の湯の世界でも武野紹鴎が三条西実隆から藤原定家の『詠歌大概の序』の講義を受け茶道の極意を悟り、「創意工夫」や「作為」の心の大切さを説いた。和歌が茶の湯に芸術性、人間性豊なものにしたのだ。

 茶の湯にも能にも同じ言霊が流れていた。

2014年8月21日木曜日

茶の湯で哲学する〜キリスト教〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「キリスト教」。
 
 日本でキリスト教を広めたフロイスの『日本史』に茶の湯との出会いが書かれている。

 上流の日本人は、彼らが大いに好意を示そうとする客があるときには、別れ際に、彼らの親しみを示すしるしとして、彼らがもっている宝を見せることが習慣になっています。それは皆必要な道具が揃った器で、彼らはそれから一定の、ひいて粉末にした葉を飲みますが、それは茶というもので、飲み慣れた者には味がよいばかりでなく、健康を増します。

 さらに、茶室に通された感動を次のように記している。

 室の片側には習わしどおりに一種の戸棚があり、そのすぐ傍に黒土で作った炉があり、周囲一ワラで珍しいものです。なぜかというと、それはまっ黒い粘土で出来ているのに、まるで澄み切った鏡のように光っているからです。その上に好い形をした鉄釜が、たいそうな見場の好い三脚にかかっていました。赤々と燃え炭火がその上に置いてある灰は磨り潰してよく篩った卵の殻からできているように見受けました。何から何まで皆清潔で、よく整っていて、言葉ではそれを説明することができなきくらいです。

 ザビエル来日以来、彼らのキリスト教布教の一つの指針が、日本の文化、思想を尊重し、同化をはかることにあった。日本の古き伝統を破壊することなくキリスト教の戒律、習慣などをそれになるべく順応させようとしたのだ。

 フロイスが眼を見張った漆で塗られた土風炉、端正に作られた灰。そして、清潔さ。清潔、清浄こそが茶の湯の原点でもあった。フロイスの鋭い茶の湯の観察眼は、日本人、日本文化に尊敬の念を抱いていたからに他ならない。

 その結果が公家、大名、庶民に到るまで65万人という信徒数を数えるに至った。現在のカトリックの信徒数が45万であることを考えると、当時のキリスト教がいかに日本人の心を捉えたのかがわかる。

 大名・武士たちがその原動力となった。「御大切」。キリスト教の愛を表す言葉だ。16世紀、宣教師たちはキリスト教を広めるために「たいせつ」という言葉を使った。見返りを求めない無償の愛は、武士道にも通ずるところがあったのだろう。あくまでも仕えることが使命の武士にとって、「御大切」と云う日本語は下剋上・戦乱の時代にあって彼らの心に響いたのかもしれない。

 さて、キリシタン茶人の存在、茶道具や燈籠等に取り入れられた意匠、茶道とミサの所作の類似性から、茶道はキリスト教の影響を受けているという説がある。

 しかし、キリスト教伝来の頃にはすでに茶の湯は流行の兆しを見せていた。「茶の湯は日本ではきわめて一般に行なわれ、不可欠のものであって、我等の修院においても欠かすことができないものである」と日本人の中に溶け込むためには、当時の交際儀礼としての茶の湯の重要性を認めた。そして、教会内に茶室が造ったのだ。とくにヴァリニャーノはその手引きまで与えていた。

 キリストの教えを広める一助として、茶の湯を利用したのだ。そういう意味では茶の湯とキリスト教は関係があると云えるが、ミサの所作を点前に取り入れたという説等は、世界中の聖なる儀式の類似性を見れば当然のことであり、日本にも清めの儀式は神代の時代から存在するのだ。

 利休の創意によって始められたと伝えられる濃茶の回し飲み。利休がミサにおけるカリスの所作に触発されて取り入れたとの説もある。”回し飲み”は酒を代表するように古来から日本人の慣習にあったものである。中世には一揆に参加する民衆たちが団結をはかるため起請文を灰にして神水に溶かし回し飲んだという”一味神水”と云う儀式もあらわれた。初期の頃に伝来した高麗茶碗が大ぶりなものが多いことからみても、一座建立を旨とする茶の湯に取り入れられるのは必然であったと思われる。

 キリシタン茶人の存在が江戸時代以前の茶の湯の性格を知る一つの手がかりとなる。宣教師たちが激しく攻撃した既存の仏教、茶の湯の思想の根源が禅であったならば、布教のために茶会を利用しようとは思わなかっただろう。

 高山右近は信仰のため大名の座も捨て去り、イエスに一生を捧げた。「喫茶に禅道を主とするは、紫野の一休禅師より事起れり」で始まる『禅茶録』。茶道が禅道を主とするならば、キリシタン茶人は最初から自己矛盾の中で生きていたわけだ。しかし、右近は大名を捨てても、キリスト教も茶道も捨てなかった。

 茶禅一味という思想は茶道の根幹を成すものであるが、その思想が定着するのは実は江戸時代に入ってからである。小堀遠州が春屋禅師の書を好んで掛けたことから、沢庵禅師や江月禅師など大徳寺の僧侶の書を床の間を飾ることが流行する。『南方録』の「掛物ほど第一の道具はなし。客、亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也。墨蹟を第一とする」と云う考えは、現代の茶道にも大きな影響を与えた。

 一方異文化同士はお互い刺激を与える。オスチヤを入れる聖餅箱に蒔絵を用いたり、調度品をはじめ彼らの好みのモノを職人に作らせることによって、南蛮の意匠、思想が取り入れられ、東西文化の融合の結晶として新たな工芸品が生まれた。それらが茶人たちに影響を与えたことは否定しない。


 宗湛日記を読むと、高山右近の茶会の様子を垣間見ることが出来る。

二畳敷、床無。道籠に肩衝とせと茶碗と置双て、脇に柄杓立て懸け、つり棚には引切一つ、壁の方に。せと水指、めんつう、風炉なり。茶の後に、つり棚に肩衝を上て置、亭仰せられるには、遠国なれば、また会を仕るべく事難有候ほどに、上げて今ちと御目懸るべきと候なりと雑談なり

右近はこの頃、キリシタン禁教の中客分となっていた前田利家に従い名護屋に従軍していた。茶室は床無。掛物は掛けなかった。

2014年8月20日水曜日

茶の湯で哲学する〜色〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「色」。

 20年ほど前に小堀遠州350年遠忌を記念して「数寄大名の美学 綺麗さび展が全国各地で開催された。その中で茶の湯三代宗匠、千利休、古田織部、小堀遠州の茶風を色の違いで表現した。それが利休の黒、織部の緑、遠州の白である。この色のイメージはそれぞれが好んだ焼物に由来する。

 利休の黒は楽焼。楽焼に代表される黒樂茶碗、赤樂茶碗を造ったのが長次郎であった。その独創的な造形には千利休の侘の思想が濃厚に反映されていると云われる。黒は暗黒を意味し、すべてを飲み込んでしまう力強さを感じる。黒に魅了された茶人は多い。

 織部の緑はいわゆる織部焼。釉薬の色により、織部黒・黒織部、青織部、赤織部、志野織部などに分類される。その中でも緑色の青織部が最も知られている。しかし、茶碗のほとんどは織部黒・黒織部であり、青織部のほとんどが食器類だ。織部焼は当初からの名称ではなかった。謀反人故か。「セト茶碗 ヒツミ候也 ヘウゲモノ也」と驚きを持って世に登場した織部の茶碗。その名が焼物の名となるのは死後50年経た寛文年間頃からであった。すでに江戸時代から青い焼物は織部という認識があったようだ。青は生命の色であり、人々に癒しを与える。青は万人を惹きつける。織部焼が好かれる所以だ。

 利休の黒、織部の青(緑)に対して遠州は白に象徴される。水仙を好んで生け、遠州木槿と名付けられたその花の色も真っ白だ。一方、遠州の道具はもちろん白も含まれるが、その好みは多彩だ。白は光であり全てのモノを明るく照らす。「崇高」「気品」「洗練」「清浄」など『綺麗寂び』をイメージさせる色なのだ。

 色は色相をあらわすだけでなく、宗教的意味合いも強い。さらに、色は両義性を持っている。また、現代と古代の色の認識も異なる。

 古代の色彩名「赤」「黒」「白」「青」がある。「赤」は独立して使われるのではなく、「黒」と一対になって使われてきたそうだ。それが、「明るい」が「あか」暗いが「くろ」になってきた。

 「白」は神秘的な色の表現であり。「赤」「黒」は光の明暗度を示すもの、明るい暗いといった。「青」は、色を持つものをすべてを表現したものだ。

 白は光の色ということから世界的に崇高な色として尊ばれた。しかし、白は悲しみの色でもあった。死に装束とは、故人に対して施される衣装のことである。白を基調とすることから白装束とも称される。

 白に関してはもうひとつ素という意味、自然そのものの色という意味だ。因幡の白兎は白い兎ではなく、素の色、つまり茶色の兎であった。

 抹茶も利休時代のお茶を白茶と云った。もちろん中国茶で云う白茶とはまったく違う。これも見た目ではなく自然の色、茶の葉そのものの色といった意味に近いのだろう。茶色というのは、平家物語にも出てくるそうだが、茶で染めた色だ。当時、庶民が飲んでいたお茶は番茶(晩茶)だったと思われる。これも茶系だ。それに対する自然の茶葉の色、白茶ということだろう。さらに織部は青茶を好んだといわれる。素の茶葉の色がさらに変化した色ととらえた方が納得できる。
 
 16世紀に来日したイエズス会の司祭ヴァリニャーノは「我等と嗜好は反対であり、我等がもっとも好むものを彼等は一般に嫌悪し軽蔑する。反対に彼等が非常に珍重するものを我等は口にすることができない。同様に我等が美しいと思うもの、我等の眼によく見える色彩を一般に彼等には価値がない。我等が明るく陽気と思う白色を、彼等は喪と悲しみを表すものと考え、我等が喪中に身につける黒色と紫色を彼等は喜ぶ」と述べている。

 喜ぶという訳が適切か否かは検証する知識を持ち得ないが、むしろ尊ぶという方が当時の日本人の考えに近いだろう。古来、黒や紫は高貴な人が着る衣装の色であった。畏敬の念をもっていたのだ。力の象徴でもあった。利休は「黒は古き心」と云い、秀吉は逆に嫌ったと伝えられる。これはたんなる美意識云々の違いではなく、むしろ秀吉は黒を自在に操る力を恐れた云うべきだろう。

 紫は、狂喜、下品、高貴、病気、高級感、正反対の意味を持つ。ヨーロッパでは青みがかった紫は、葬儀や憂鬱さと結びつき決して麗しい色ではない。

 紫に染めるのは染めるのは大変手間がかかり、手に入れることが難しかったことから権力の象徴的な色と結び付けられた。日本でも紫草の根が染料として使われたが、収穫量の少なさや染めるのにこ手間がかかるため、位の高い人や僧の衣の色に用いられた。

 また、紫草は薬としても使用された。病人にとっては高価ではあるものの必要不可欠の薬であった。歌舞伎や時代劇など紫の鉢巻を巻いている人は病気や病弱の印で、当時は飲むだけでなく、染めたものを幹部にまきつけるだけで効果があると思われいた。

 袱紗の色は、茶道でも一般の袱紗も同様慶弔どちらでも使えるのは紫といことになっている。

 利休が黒好みであったことはよく知られている。とくに、天正十八年(一五九〇)九月十日、博多の商人神屋宗湛と大徳寺の珠首座を招いての茶会で、黒茶碗を使い、これを片付けて瀬戸茶碗に置換え、「黒キニ茶タテ候事、上様御キライ候ホトニ、此分ニ仕候」といった話(宗湛日記)は有名である。上様つまり秀吉と利休との美意識の対立を示す挿話として、また間もなくやってくる利休自刃の悲劇を予測させるものとして、利休を語るときにはしばしばこの話がとりあげられている。

 利休の茶はタブーへの挑戦でもあると何度か述べてきた。利休の好んだ色からもそれを垣間見ることが出来る。黒楽、赤楽もタブーの色であったのだ。死の穢、血の穢である。秀吉は聖なる空間、茶室に穢の色を持ち込んだことに嫌悪感を抱いたのかもしれない。