茶の湯は境界で行われる儀式である。
茶道の精神の一つが「おもてなし」。日本の「おもてなし」の起源は、祭りを代表するように神さまをお迎えすることにある。そして「おもてなし」をするためだけの特別な空間が作られた。日常生活の場ではない非日常の場所、つまりキヨメられた空間を作るのだ。そこには仕切られた空間に境界が張り巡らせた。その究極の場所が神社なのだ。
日本人は古来から境界を大切にしてきた。境界はこの世と異界をつなぐ場所と考えられ神聖視されてきたのだ。そこでは世俗との縁が切れたと考えられ、誰もが自由に出入りが出来た。それ故、現代では薄れつつあるが、境界は汚してはいけないという共通意識、タブーが生まれた。
茶の湯も茶室という特別な空間が作られ、日常と非日常を明確に区別した。茶室はもともと囲いと言って、広間の片隅を屏風で囲ったことから始まった。境界を作ることで、日常と非日常の場所をわけたのだ。身分の上下に関わらず一座建立出来たのも、茶室が境界故なのだ。
天正15年(1587)10月1日に京都北野天満宮境内において、関白太政大臣豊臣秀吉主催の大茶会が催された。それに先立って、告知されたのが次の高札である。
一 北野の森において向こう十日間、天気次第で大茶の湯を催し、御名物どもを残らず揃えて数寄執心の者に見せる。
二 茶の湯執心とあらば若党・町人・百姓以下によらず、釜一つ、つるべ一つ、呑物一つでもよい。茶のない者はこがしでも差し支えないので持参すること。
三 茶の湯の座敷は北野の松原であるから、畳二畳敷きで事が済む。ただし、侘び者は、地べたでも筵でも良い。着座の順序など自由。
四 日本のことは申すに及ばず、数奇の心がけのある者は、唐国の者までも罷り出よ。
五 遠方の者も参加出来るよう十月十日まで開催する。
六 このように仰せ出されたのは、侘び者を不憫に思し召されてのことであるから、今度罷り出ぬ者は、今後こがしをたてることも無用である。罷り出ぬ者の所へ参ることも同様に無用と心得よ。
七 特に侘び者とあらば、誰々遠国の者にかかわらず、秀吉公の御手前で御茶を下される筈である。
茶道史での評価は多数の名物道具が使われ、茶席の数も800を数えたと伝えられるなど秀吉の権勢誇示のためとの位置づけている。10日間行われる予定だった茶会も、1日で中止となった。中止の理由は肥後での一揆のためとか諸説ささやかれるがその真相は謎である。
しかし、この茶会の最も注目すべきところは場所なのだ。北野神社の境内で行われた北野大茶の湯は、茶の湯のアジール(聖域)性、境界を考える上で興味深い一大イベントであった。
秀吉は利休と対比して道化として捉えられることが多い。物語としては面白いが、事実はまったく違う。秀吉ほど古来の因習、慣習に敏感で畏敬をもって接した為政者はいなかった。茶会が開催された北野天満宮こそが茶の湯の深層を知る上で重要であり、この地を選んだ秀吉の信仰の深さを示すものである。北野神社境内でなければ、最初からこの茶会は成り立たなかった。
中止の理由もアジールの観点から考察するとわかりやすい。あくまでも想像だ。私は境内を穢す何らかの事件が起こったのではないかと考える。例えば境内内で動物の死骸が見つかった。全国から様々な階層の人たちが集まったためイザコザが起り血で汚してしまった等々。事件は小さかったかもしれないが、境界が穢れてしまった事実は、秀吉の逆鱗に触れたのだ。
4年後に秀吉が築いた京都を洛中洛外に隔てた御土居の存在もそれを裏付ける。御土居とは北は上賀茂から鷹ヶ峰、西は紙屋川から東寺の西辺、南は東寺南側の九条通、東は鴨川西側の河 原町通まで、南北約8.5キロ、東西約3.5キロ、総延長約22.5キロにも及んだ土塁(城壁)のことである。北野神社も洛中洛外の境界にあり、その西側境内を分け隔てるよう御土居が造られた。北野天満宮の御土居も、穢れてしまった境内を嫌った秀吉が境界の外、つまり洛外に取り除くために造った境界とも考えれる。
茶室は境界で仕切られたアジールだ。それ故、茶室は常に清めれていないといけないのだ。