2014年8月19日火曜日

茶の湯で哲学する〜江戸〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「江戸」。

 江戸と言うと、様々な意味が含まれている。
 まずは時代としての江戸。徳川家康が1603年江戸に幕府を開き、徳川慶喜が大政奉還をする1867年までの武家の時代を指す。。江戸時代はおよそ260年。この時代は軍事政権でありながら世界史的にみても平和が長く続いた時代でもあった。

 また、場所としての江戸を指す場合もある。江戸の町を大きく分けると、江戸城の南西ないし北に広がる武家の町(山の手)と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した庶民の町(下町)に大別される。今日でもその面影を残している地域を多い。

 さらにアイデンティティ(自分が自分である証)としての江戸もある。「江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」。「江戸っ子」と称される独自の住民意識が生まれてくるのは、200年近く経った江戸時代後半のことである。当初は家康が連れてきた人たちが造りあげた街だ。江戸っ子も野暮という田舎者や地方から出てきた人に対する言葉でもある。江戸は将軍様のお膝元、全国から人々が流入してくる。江戸の街は自分たちの先祖が造ったという、新規住民に対するアイデンティの一つでもあるのだ。

 このように江戸一つをとっても人によってはイメージすることが異なるが、現代の文化はこの江戸時代の文化を継承していることが多い。茶の湯も江戸時代に完成した文化の一つともいえる。

 中野三敏先生の「江戸文化再考」では江戸文化を雅と俗にわけて考えた。「雅」というのは”みやび”とも、”が”ともいう。武家文化と捉えることが出来る。そして「俗」、これは低俗という意味ではない。庶民の文化、町衆文化のことをさす。それを茶の湯にあてはめて考えていきたい。

 江戸時代の茶の湯を興隆期、成熟期、衰退期の三段階に分けて考えてみる。文化が成熟している状態とは、幹がしっかりしていて枝葉が広く多く分かれている。様々な選択肢があるのが文化の成熟度を測るものだ。選択肢が一つでは文化が成熟しているとは言えないのだ。

 17世紀は幕藩体制が確立し、朱子学の思想に影響を受けた茶の湯は洗練され完成されてゆく。現在の茶禅一味の思想もこの時期に生まれたものだと、先の哲学するでも述べた通りだ。天下の名物は尽く武家の手元に集められた。将軍家の茶の湯として古田織部、小堀遠州、片桐石州等が茶道指南役として茶の湯をリードする。現代の茶の湯が原型が確立した時代である。

 一方町衆、千宗旦や三人の息子たち(三千家の祖)、千家流の弟子たちはある者は各藩に仕官、ある者は多数の弟子や書物を通して利休の教えを広めようとした。これが流儀の確立の道となる。茶の湯文化の興隆期であった。

 江戸中期は茶の湯にとっても成熟期だ。遠州、石州によって確立された武家の茶法は式正とされ受け継がれた。特に石州の茶風は各派に分かれ大名家の茶として各藩に伝播する。寛政の改革の松平定信、姫路の風流大名酒井宗雅、そして出雲の松平不昧はこれまでの伝来の茶道具を分類するなど茶道への功績は計り知れない。遠州流でも幕府の中枢まで登りつめた小堀宗香、その子宗友は「喫茶式」「数寄記録」を編纂、遠州伝来の茶法をまとめあげた。まさに武家の 茶道文化は成熟期を迎えたのだ。

 一方庶民も都市部を中心に茶の湯を学ぶ人が増えてくる。茶の湯の大衆化が始まった。大衆に支持されるには分り易く遊びの要素が取り入れられ「遊芸」とも称された。免許皆伝であった茶の湯も江戸時代の身分制度の元、一子相伝の世界へとなった。次第に家元制度が確立していき権威化してゆく。作法もこまかく規定され、表千家如心斎天然宗左、裏千家一灯宗室、官休庵一翁宗守やを川上不白などの高弟が中心となり七事式が誕生した。大勢が一度に稽古が出来るよう工夫されたゲーム形式の稽古法である。庶民の茶の湯もまた成熟期を迎えていた。

 芸術の分野でも尾形光琳、宗達、その後の酒井抱一など江戸の美を代表する芸術家を生み出す。茶の湯の歴史では江戸前期よりも影が薄いが、この時代に生きていたならば、茶の湯者にとって一番刺激的で面白い時代であったに違いない。 

 18世紀後半から19世紀にかけては茶の湯の遊芸化がさらに進む。それは幕藩体制の揺らぎとも無関係ではない。茶の湯文化も衰退期を迎える。それを証明するかのように各階層からも茶の湯批判が起こる。しかし、それを正す力は誰も持っていなかった。儒者、文人、国学者をはじめ、家元自身も批判する。幕末最後の大茶人井伊直弼も「快楽する道にて、行やすき道にはあれども、法中に邪道を 説く者ありて、よく人を導く故にその説を面白しと、是に汲みする 類も多く成行事、是は喫茶の不行ざるよりも、又、格別に嘆かわし きの至極なれ」と遊芸化の進んだ邪道な茶道が流行する当世を嘆いた。

 江戸の武家文化は、習俗的であった茶の湯を雅の文化を加え一気に完成させた。それを世の人は「綺麗さび」と称した。

 雅とは品格である。俗とは人間味である。江戸時代の茶の湯は品格ある茶から次第に俗なるもの人間味が加わってくる。それが行き過ぎると遊芸化が一段と進む。

 現代でもなお、茶の湯は雅と俗の間に揺れている。

2014年8月18日月曜日

茶の湯で哲学する〜竹〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「竹」です。

 竹は茶の湯にとってはなくてはならない素材の一つだ。例えば、茶杓、花入、茶器、蓋置などの表道具、茶筅、柄杓の水屋道具、茶の湯の舞台になる茶室、そして雪駄にいたるまで、竹は茶の湯の源流を探るにあたっての深いテーマである。

 竹と日本人の関係は、縄文時代まで遡ることが出来る。縄文晩期(約3000年ほど前)の青森県内の亀ヶ岡遺跡や是川遺跡では、竹で編んだ籃胎漆器が発見された。

 神話の世界でも竹は特別な役割をに担っていた。イザナギがイザナミを探しに黄泉国を訪れたとき、左の角髪(みずら)から櫛を抜き、それに火を灯した。そしてそこから逃げ出すときには、右の角髪の櫛を追ってくるヨモツシコメの方へ投げつけた。するとそこにタカンナ(タケノコの古名)が生え、それを黄泉醜女が食べている間にイザナギは逃げ延びた。

 スサノヲも櫛の呪力でヤマタノオロチに打ち勝った。神話の世界だけでなく、櫛が古代人にとってどれほどの聖なる力を持っいたかは、宮崎県で鳥居龍蔵によって発掘された、天下(あもり)古墳や浄土寺山古墳の副葬品が証明している。遺体には数十本の竹櫛が刺してあったのだ。

 その他、コノハナサクヤヒメが竹で作った刀でへその緒を切きり、捨てた竹の刀がたちまち竹林になって産室になったという話等々、竹にまつわる話は枚挙にいとまがない。

 アメノウズメは天照大神のために手に笹を持って踊った。現在でも能や歌舞伎そして神楽の舞人が手にするものを採物(とりもの)と言うが、それは笹であり依り代でもある。

木にもあらず  草にもあらぬ  竹のよの  端に我が身は  なりぬべらなり

 竹の神秘性を語るのに頻繁に取り上げられる歌だ。木でもなく草でもない竹の、さらにその「よ」の空間のように、世の半端ものにこの身はなってしまったようだ、という意である。

 竹は、その驚異的な生長力や、不死と見紛うほどの生命力、節間が作る不思議な空洞などから聖なる植物とされてきた。120年に一度と言われる一斉開花もその神秘性を高めた。

 竹は呪力を持つ。この観念は、竹や笹が生育する地域が共有する民俗文化だ。神降ろしの結界を作るとき、生竹を立てて注連縄で囲む。神社などの竹垣も、境界を聖別するものである。竹で編んだ籠も呪具であった。籠目は「鬼の目」とも呼ばれるが、実は邪霊の侵入を拒む聖なる目である。逆もあり、時代劇などで設えられる刑場での竹囲みや罪人を入れる籠は、邪を封じ込める呪法であった。

 竹は呪力を持つ故に誰もが扱えるものではなかった。特別な能力が必要とされたのだ。それ故「竹取物語」の逸話等、竹を扱う人々は古来から差別との闘いでもあったのだ。

 その竹を取り入れたのは侘び茶の時代だ。聖なる茶室には呪力を持つ竹は本来持ち込めない。タブーである。タブーへの挑戦が侘び茶の特質でもあるのだ。

 茶人の魂とされる茶杓も、茶人自ら竹藪に行って竹を切り、削り作ったわけではない。下削りの職人がいて原型を作った。竹の花入も同様だ。作った人が作人ではない。設計者が作人となるのだ。

 花入で一番大切なことは寸法である。「墨をする」と云って、寸法を決めることに意味があり、墨を入れていった。それ故、竹の姿を見極める力、目利きこそが重要になってくる。昔は秘伝中の秘伝であり、「墨寸法之儀御伝授被成下辱仕合奉存候如御差図他見他言不仕花入墨之儀云々」と云うように誓詞を入れた。
 
 竹は呪力を持つと考えられていた故に、竹を扱う職人の手を加えてはじめて茶人が手にすることが出来た。

 竹は侘び茶の謎を解く鍵でもあるのだ。

2014年8月17日日曜日

茶の湯で哲学する〜釜〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「釜」。

 茶会で最初から最後まで茶席に存在する茶道具は釜である。

「それ茶の湯の道とても外にはなく、君父に忠孝を尽くし、家々の生業を懈怠せず」で始まる小堀遠州の書き捨ての文の最後の一文は「松風の音絶ゆることなかれ」と締めくくられている。松風とは釜の湯の煮え立つ音のことを云う。釜の煮え湯が落ちてしまっては茶の湯は成り立たないのだ。

 豊臣秀吉が開催した北野大茶の湯。天正15年10月1日(1587年11月1日)に京都北野天満宮境内において秀吉が主催した歴史上最大規模の茶会だ。その茶会を開催するに当たって、京都の五条などに高札が掲げられた。

若党、町人、百姓已下によらず、釜一、釣瓶一、呑み物一、茶焦がしにても苦しからず候

 茶がないものはこがしでも良いと書いてある。茶の湯でありながら抹茶は絶対ではないのだ。茶高札は誰が書いたのかはわからないが、秀吉の意向を十分に配慮したことだけは確かだ。そこには、釜一つと書いてある。抹茶はなくても釜が無くては茶の湯は出来ない。

 抹茶は文献上では800年ほど前に栄西禅師がもたらしたことになっている。釜は抹茶伝来以前よりあった。その用途は食物を炊く、煮る、そして湯をわかすという、炊事用の鍋釜である。

 茶の湯に使われる釜は伝承によると土御門天皇の時代、建仁、元久の頃(1201〜1206)に入って作られるようになった。足利義政の東山時代を迎え茶の湯が盛んになるにつれて輸入品や特定の産地の釜では需要をみたすことができなくなり、仏像や仏具、一般の鋳造品を造っていた鋳物師たちが釜も作るようになった。唐銅を主とする中国の釜と異なり、日本の釜は鉄を主としてすぐれた茶の湯の釜が鋳造されるようになる。

 釜は芦屋、天明などの古作のものや、京作釜など名人の作がもてはやされた。
 
 芦屋釜は釜の王様と云っていいだろう。芦屋というと一般の人は兵庫県の芦屋をイメージするが、筑前(今の福岡県)の芦屋のことだ。芦屋釜の起源は土御門天皇の時代、建仁、時代に京都栂尾の明恵上人が初めて芦屋で釜を造らせたと伝えられている。その最初のものが羽付の真形で、これを祖釜といって最上の釜とされた。

 この筑前芦屋の釜大工たちは、16世紀半ば、当時筑前を支配していた大内氏が滅んだ後、各地に離散して、伊勢、播磨、越前、石見、伊予などに移り住んで釜を製作するようになった。そしてそれぞれの地名を頭に付けて、越前芦屋、伊勢芦屋、伊予芦屋、肥前芦屋、播磨芦屋、石見芦屋などと云われるようになった。

 芦屋釜の特徴は、一般的には薄作で、形と地紋がすぐれている。口から肩にかけての曲線と、肩から胴への量感に力強さと優雅さが見える。古いものは肩のはらない丸い形のものが多く、時代が下がるにつれて肩が張ってくる。文様も写実的な装飾地紋に精巧で華麗なものが多い。釜肌は絹ようような美しい肌あいを匂わせている。

 初期の鐶付は胴の中央ぐらいについている。次第にやや上部の方についけられるようになった。それは炉の普及とは無関係ではない。釜を炉壇、つまり炉中に据えた時、鐶付が中央にあっては炉壇に触れたり、あるいは釜鐶を上手く入れることが出来ない。古い釜ほど鐶付が中央部分にあるということだ。

 もう一つ古い釜で天命釜という釜がある。これは栃木県佐野市のことで、古くは佐野天命と呼ばれていた。また、神奈川県小田原でも天命風の釜が造られ、古くからこちらの方は天に猫をあてて天猫と呼ばれる。天命に比べると時代が下がる。

 天命釜の特徴は、地紋があるものが少なく、その肌合いにある。鐶付は、芦屋には鬼面が多いが、天命釜は遠山、貝類、蕨などが多いのが特徴。また、天命には共蓋が多く、唐胴蓋は少ない。

 このように釜は真形、面取、四方、霰、累座などその形姿や地紋、鐶付や肌合いなどが賞翫の対象になることが多い。しかし、通常、釜の胴の部分は炉中に隠れていることが多く、常に客の眼が注がれるのは、蓋である。蓋が悪いとせっかくの名品も台無しになってしまうのだ。

 それ故、良い釜というのは良い蓋がついている。蓋の善し悪しは、道具の格を左右する。釜の蓋を誉めることは目利きの証明であり、亭主冥利につきるものとなる。ところが、最初からその釜のために作られた共蓋がついていることは稀だ。多くが後から合わせたものである。

 釜は鉄で出来ているので、念入りに手入れをしたりしても、錆びたり、底が抜けたりして、蓋だけ残ることがあった。茶人は、良い出来の釜の蓋を出来るだけを集めて、お気に入りの釜と合わせる。ピタリとくると一方ならぬ喜びであったに違いない。利休の四方釜は蓋に合わせて釜を作ったことでも有名である。

 茶の湯は囲炉裏、火の神を囲んで執り行なわれる儀式である。茶の湯が茶道と称されるようになり、茶から湯が無くなってしまったが、湯がなくては茶道にはならない。釜が最初から最後まで存在する理由がそこにある。松風の音を絶やしてはいけないのだ。

2014年8月16日土曜日

茶の湯で哲学する〜アート〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「アート」。

 アート、美術、芸術は洋の東西を問わず、神との関係を抜きには語ることが出来ない。ヨーロッパの教会や美術館に足を運んでも、18世紀までの美術品、建築物は、宗教的知識、とくにキリスト教の知識なくしては、なかなか理解することが出来ない。それは、日本においても芸能と呼ばれる雅楽、和歌、茶道、華道、能、狂言、蹴鞠等々も同じある。

 宗教の影響を強く受けていたヨーロッパのアートもフランス革命によって激変する。その辺りの事情は椹木野衣さんの著書「反アート入門」に詳しい。1789年にフランスで始まった市民革命(ブルジョア革命)によって、ブルボン王朝が崩壊し、第一共和政が樹立される。それまでの特権階級であった王侯貴族達が没落していき、主役が市民となる。また当時の聖職者たちは特権階級に属していたので、キリスト教は徹底的に弾圧され、追放、破壊が繰り返された。

 そこで何が起こったか?アートが神の手から離れていったのだ。政治の主役が神や王侯貴族たちから、市民となった。そうすると、これまでの神話や宗教に根ざしたテーマで描く必要がなくなり、自分の描きたいものを描くようになる。宗教的タガがはずれたのだ。そして、新たなアートが出現する。それがモダンアートであり、現代アートに引き継がれる。

 日本でも同じことが起こった。明治維新だ。明治維新の中心となったのは地方の下級武士たち。武家文化、仏教文化を否定し文化破壊を行った。大名がパトロンであった能や茶道なども否定された。それは経済的な面だけでなく、思想的にも大きな影響を与えた。江戸時代まで禅宗、儒教の教えの影響を受けていた茶道、武士が生きる上での規範としていた茶道が寸断されていくことになったのだ。つまり、作法、工芸、建築、花、料理等々とそれぞれが独立した形で歩みはじめる。神のタガ、宗教のタガが外れた。

 それは、数寄者の登場によって最高潮を迎える。有り余る財力を背景に言葉は悪いが美術品を買い漁る。宗教的、思想的バックボーンがなくなり、趣味という新たな分野が生まれたのだ。彼らのお陰で茶道具が散逸せず、我々は名品を今なお眼の前にすることが出来る。その功績は計り知れないものがあるが、道具がたんにモノになってしまったことにも留意すべだろう。

 しかし、茶道はそれ以前に、神のタガ、宗教的タガが外れた時期があった。利休の時代である。前回、利休の茶の湯は異質だ、言霊がないと述べた。中世最後の大芸術家でありながら、もっとも中世的なるもの歌心、つまり神の心が見えないのだ。日本の芸能、美術だけでなく、歴代の茶人の中でも異質な存在だ。

 欧米のアートが宗教のタガがはずれ、モダンアートから現代アートへの流れはおよそ200年を要した。しかし、利休が天下一の宗匠として活躍した時期は6年。たった6年で利休の茶は200年のアートシーンを駆け抜けたと云っても過言ではない。利休の異質性はその後の江戸時代の茶の湯にも影響を残した。

 和歌は神との関わり抜きには語れない。神、宗教から離れたところに侘び茶が生まれた。宗教には様々なタブーが存在する。タブーを破ってきたのが利休の侘び茶であり、利休の美でもあるわけだ。(タブーに関しては別項で)

 呪術的意味合いの強かった竹や茶壷を茶室に持ち込む。見立てと称して茶道具に仕立てる。また、床の間に飾るべき茶壷をにじり口に置き茶室への入り口を塞いだ話、花入に花を生けず水ばかり入れて飾る、雨が降った後、床壁にさっと水を打った跡だけが残すなどの数々の茶の湯の逸話はコンテンポラリーアート、サウンドアート、コンセプチュアル・アート、リレーショナルアート、インテリアアート、多文化主義など、まさに現代アートとして評価されていることが、400年以上も前に茶道シーンで既に行われていたのだ。

 利休はタブーを破り、斬新な発想で侘び茶と云う新しい美の体系を創り上げた。16世紀、茶の湯に出会ったヨーロッパ人のみならず、多くの日本人が理解出来なかったのは当然だろう。茶の湯は利休や遠州の後ろ姿を追いかけながら時を待ち、アートは変容を繰り返しながら時代の求めに応えようとしてきた。

 21世紀のアートがこれから歩む物語は楽しみだ。現代美術のこれまでの道程は、400年以上前の茶の湯に既に示唆されていた。そして、今、茶道もアートも同じスタートラインに立っている。これから世界のアートは誰もが経験したことのない未知の世界が待っている。私たちはその時代に生きているのだ。現代のアートは茶道を嗜む者にとっても刺激なのだ。

2014年8月15日金曜日

茶の湯で哲学する〜和歌〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「和歌」。

 村田珠光は大徳寺一休和尚に参禅、茶禅一味の境地を悟り侘び茶を創始した。武野紹鴎は三条西実隆より藤原定家の「詠歌大概の序」の講義を聞いて茶道の極意を悟った。紹鷗は禅と和歌の悟りの境地は同じだと気付いたのだ。

 禅の場合は茶禅一味といったが、和歌の場合は茶歌一味とはいわない。それは茶の湯の始まりから、連歌師が大きく関わってきており最初から和歌の影響を受けて発展してきたからに他ならないことは、連歌の項でも述べさせていただいた。

「詠歌大概の序」は次のように書かれている。

 情以新為先(こころはあたらしきをもってさきとなし)
 求人未詠之心詠之(ひといまだえいぜざるのこころをもとめこれをえいず)
 常観念古歌之景気(つねにこかのけいきをかんねんし)
 可染心(こころをそむべし)

 時代の移り変わりは常のごとくであるので、その次代の変化をいち早く掴むこと、常に情報を張り巡らせていなくてはならない。また、毎年、同じ花をみていてもそれを見る人の心は同じではない。人が詠うことが出来なかった歌の心を探って、新しい心で和歌を詠うべきある。

 お茶で云うと創意工夫や作為の心である

 また、先人たちの古歌の心を汲み取りながら、別の趣で詠わなければならない。これが本歌取りという和歌の技法で、新古今和歌集から多くの歌に取り入れるようになった。

 古歌の心を探るということが、すなわち稽古ということだ。稽古は中国の書経に出てくる言葉だ。古代の書物を読んでそこから聖人の教えなどを学ぶことを云った。

 この稽古の重要性は藤原為家も「詠歌一体」で述べている。

 和歌をよむ事かならず才學によらず、ただ心よりおこれる事と申したれど、稽古なくては上手のおぼえ採りがたし

 和歌をよむことは決して学問から得た知識ではない。ただ心の中から起こることだと先達は申したけれど、稽古、つまり昔の書物から習うことなくしては、名人の評価を得ることは難しい

 和歌は特別な詩的才能に恵まれなくても、稽古によって和歌を詠むことが可能になる。むしろ稽古を重ねて伝統と自己との調和を整えていく。これがお茶の稽古に繋がっている。

 最初に茶席に掛けられた和歌は諸説ある。近衛家煕の言動を綴った「槐記」にも歌掛物の始めが書かれてある。

「八重葎茂れる宿のさびしきに 人こそ見えね秋は来にけり」(恵慶法師)

「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山のいでし月かも(阿倍仲麻呂)

 昔は墨跡ばかりかけていたが、ある時利休がある茶人に招待された時に、手水鉢のふきんは掃除されていたけれども露地は草ぼうぼうであった。そこで利休は、その茶人が所持している定家の色紙の歌「八重葎」の歌の心を知って合点したというもの。これが歌掛物の最初としている。

 続けて、利休が秀吉を招待した時に、定家の色紙「天の原」を掛けておいたところ、秀吉はそれまでは茶の湯の掛物は墨跡のみをかけていたのに、歌掛物なので不審に思い利休に尋ねたところ、利休はこの歌の雄大さ、奥ゆかしさは大徳寺の開山である大燈国師や、虚堂禅師の心に匹敵するので用いたと云う説も述べている。

 ちなみに「天の原」の和歌は、今井宗久の茶の湯日記を見ると 1555年10月2日の条に武野紹鴎が今井宗久、山上宗二の二人を招いての茶会に使っている。

 茶の湯の心を語るのに古人は和歌を引用した。

村田珠光 
 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ(不(藤原定家)
武野紹鴎
 村雨の露もまだひぬ槇の葉に 霧立のぼる秋の夕暮れ(寂連法師)
千利休
 花をのみ待つらむひとに山里の 雪間の草の春を見せばや(藤原家隆)

あるいは茶道の心得を歌に託した。「利休百首」「茶道百首歌」と伝えられるものである。

 この和歌の世界を本格的に取り入れたのが、小堀遠州である。その最も特筆すべき功績は、茶入を時代別、窯別に分類するのに和歌の手法にならったことにある。

 遠州以前の多くは、茶入の銘は、その形状、所在、由来 景色によって銘々された。大名物など単純なものが多い。江戸時代になって、茶入の種類も多くなり、茶碗と同様細かく分類されるようになった。遠州は和歌の本歌取りの手法を用いて分類した。

 遠州は時代別、窯別、形状別に茶入を集め、その中で一番優れている茶入を本歌とした。例えば、金華山窯の茶入に古今和歌集の春道列樹の「昨日といい今日とくらして飛鳥川 流れてはやき月日なりけり」という歌を添えて“飛鳥川”という銘をつけた。これを“飛鳥川手本歌”という。また、同一種類の茶入に 後撰和歌集の「いはねども我が限りなき心をば 雲井に遠き人もしらなむ」という読人しらずの古歌を書つけ、「雲井」と銘々した。これを「飛鳥川手 銘 雲井」茶入という。このように本歌と◎◎手のような茶入の分類は、小堀遠州によって始められたのだ。

 和歌の力は絶大だ。言霊を通して神と交わり、人と交わる。公家や武家が歌を詠むのは遊んでいるわけではない。国や人を動かす原動力であった。中世以降、連歌師が活躍し諸国を回り歓迎されたのも、情報収集というだけでなく神が生きていた中世だからこそ、彼らの見えない力にすがったのだろう。戦乱が中世的秩序を崩壊させ、新たな時代近世の価値観を生み出す。そんな境界の時代に、連歌師たちによって茶の湯が次第に洗練されてゆき、利休につながる。

 しかし、利休の茶は異質だ。言霊が見えないのだ。和歌の力は絶対的であったにも関わらず、利休の活躍した6年間だけはこの言霊の力、宗教的タガがはずれた特殊な茶の湯であったのだ。

 織部も利休は歌が下手だったと述べているように、利休詠と伝えられている歌は少ない。その上、織部の言を裏付けるように上手いとは言えない。中世最後の芸術家でありながら、もっとも中世的なるものが見えないのだ。

 利休は下手だったから歌を詠まなかったのか、それとも意図的に言霊を遠ざけたのか。いずれにしても、足りなかった言霊を補ってあまりある力強い精神力が利休の茶を不朽のものにした。

 利休の茶の湯を検証していくと、その精神の原動力はタブーへの挑戦だったことがわかる。タブーとは宗教的タブーのことだ。言霊を遠ざけるかわりに、極めて土俗的な習俗を取り入れ、ケをハレに、ケガレをカミ(聖)へと逆転させる力である。

 虚構と現実をつなぐ和歌世界は茶の湯を創造力豊な世界へと導いた。しかし、利休の茶は創造力を否定した、、、。

2014年8月14日木曜日

茶の湯で哲学する〜戦国の茶〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「戦国の茶」。

名器は一国一城に値す

 戦国の茶を語るのに必ず引用されるエピソードだ。

 織田信長は名物狩りを行う。名物とは、室町将軍家が集めた唐物を中心とした美術工芸品のことである。後の時代には大名物と称するようになる。将軍の宝物だから町人や大名、小大名も含めて所持するべきではない。とくに京都、堺、奈良の町人から名物を半ば強制的に買いあげた。中には信長に取り入ろうと献上した者もいた。

 名物を集めるために、鑑定したり指図したりする茶の湯に長けた人物が必要だ。それが今井宗久や津田宗及、そして千利休などの堺の商人たちであった。しかし、その中心は信長の家臣であった松井友閑である。彼の家は代々足利将軍家に使えた家であったが、義輝が久秀に暗殺された後、信長に使えるようになった。一般には堺の商人たちが茶の湯を主導したように思われがちであるが、この頃の利休はまだ豪商としても、茶人としても、ナンバースリー、ナンバーフォー以下の存在でしかない。松井友閑というナンバーワンが信長の茶頭として信長の茶会を取り仕切っていた。

 信長は、茶湯御政道といわれる政策をする。茶の湯を政治的に利用した。信長は功績があれば、茶の湯を家臣に許し、名物も授ける。名のある家臣たちがこの栄誉を受けることになった。

 しかし「名物は一国一城に値する」と言われても現代人は理解出来ない。

 武士が茶の湯者として登場するのは、町衆たちよりもはるかに遅い。松屋久政の茶の湯の記録「松屋日記」には、書き始めてから約30年間その付き合いも町衆たちが中心であった。永禄4年(1561)に至って初めて武士の名が登場する。それが松永久秀だ。

 久秀は、大和の国を支配した戦国大名で松永弾正としてその名が知られている。彼の出生は謎に包まれているが、早くから茶の湯をしていたことは知られている。

 初めは畿内一帯を収めていた三好長慶に仕えたが、やがて三好家中で実力をつけ、長慶の死後は三好三人衆と共に室町幕府第13代将軍・足利義輝を永禄の変で殺害し、畿内を支配した。しかし織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、信長に降伏して家臣となる。その時に名物の「つくもがみ」を献上した。同道したのが堺の町人、今井宗久。彼もまた、隠れ無き名物といわれた松島の茶壷と紹鴎茄子茶入を献上する。

 天下一の名物がこの頃から信長のもとに次第に集まってくるようになった。その後信長に反逆して結局敗れる。信長にこれだけは渡すのも御免被ると爆死した時に手にかかえていた釜が、名物の平蜘蛛釜と伝えられている。久秀の茶の湯への執心ぶりを雄弁に物語っている。早い時期での久秀の登場は、彼もまた諸国を渡り歩いた連歌師系統の町衆出身であったと考えるのが妥当だろう。

 また、利休当時の茶の湯を知る史料としてもよく取り上げられる「山上宗ニ記」には唯一、武将で数寄者であると登場する人物がいる。それが三好実休(義賢)だ。三好実休は先の三好長慶の弟にあたる。36才で戦死するが、武野紹鴎や利休に茶の湯を学び、大名物の「三日月」の茶壷を所持していたと伝えられるなど実休だけでなく三好一族は茶人としても知られていた。そうすると松永久秀が三好氏にどのように取り入り実力をつけていったのか、想像出来るというものだ。茶の湯がはたした役割は大きい。

 武士が歴史の表舞台に立ったのは平清盛からだ。平氏が公家に代わって天下を取れたのは、軍事力でも日宋貿易で蓄えた経済力でもない。

 神話によれば神武天皇から現代まで続いている天皇家は軍事力は持っていない。さらに公家たちもそうだ。公家たちの日常をみてると、野に遊んだり、歌を詠んだり、蹴鞠をしたり、現代人の目からみると、遊んで暮らしてるのかと思ってしまう。しかし、天皇家でも公家でも必須の教養とされてきた。

 特に和歌の力によるところが大きい。言霊を通して神と交わり、人と交わる。和歌こそが国や人を動かす原動力であったのだ。

 平氏が滅んだのは、武士の本分を忘れて公家化したからだと云う説もある。これは大きな誤りだ。何の力も持たない公家が政治の中心に要られたのは、神と交わることができる手段であった和歌を詠めたからに他ならない。平氏も公家化したからこそ天下を治めることが出来た。まだ、神が生きていた時代である。

 その後、武家も歌は必須になる。戦国武将である細川幽斎の「武士の知らぬは恥ぞ馬茶湯はぢより外に恥はなきも」は、武士の心得を詠った歌としても有名である。茶の湯とはお茶を飲むだけではない。そこに公家文化、特に和歌の心得は必須であった。

 日本の場合、古来から国を治める力というのは、軍事力や経済力よりもソフトパワーが重視された。現代は軍事力や経済力優先だ。歴史を学ぼうとしない愚かな人たちが多いことか。

 平氏の時代を経て、武家が統治する時代が続く。その統治の後ろ盾は朝廷から与えられる官位であった。しかし、国が乱れてくると勝手に官位を名乗り、名乗らせたりして有名無実化していく。それが室町末期だ。武家が武家たる確たる証明が出来なくなった。

 武家の証明とは、身分、血脈のことだ。そしてそれを裏付ける官位であった。平氏、源氏の本流は名門として認識されてはいたが、多くの地方の豪族、地侍などその身分は保証されるものではなかった。それは町人たちも同様であった。

 珠光の名言に、「藁屋に名馬つなぎたるがよし」

 粗末な座敷にこそ名物を置くことがよいのだ。趣、なおもって面白いというもの。わびたる ものと名品との対比の中に思い がけない美を見出すところに珠光のわび茶の神髄がみられるということで解釈されることが多いようだ。

 戦国の茶は利休の代名詞でもある「侘び」がクローズアップされる。しかし、この時代の侘びは極めて現実的だ。それを裏付けるように小堀遠州の茶の湯伝書には「むかし茶湯に上中下の三段をわけたり」とある。

•上は其身すぐれ、或其の身に財あれば、名物所持ある故上とす。
•財あれども名物の道具不足なるか、あるいは道具あれどもその身まづしければ、是を中とす。
•下は財無、道具もまどしき故に下とす。これを侘といふ

「身分も高く、財力もあり、名物を持っている茶人を"上”。財力があっても名物の所持が少ない、名物を持っていても財の乏しい茶人は”中”、財も無く、名物も持てない茶人を”下”、つまり”侘び”と云っていた。

また「よき壷所持の人は人に御茶可申といひ、よき壷不持の侘は御茶可申とは云わざるなり」。昔は、名物を持たなければ茶とは認められなかったらしい。

 今で言うと一流、二流、三流の三段階。身分も高く、お金持ちで、そして名物を持っている人が一流の茶人。お金は持っていても名物道具を持っていない人、道具を持っていても身分が低い人は二流茶人。そして、お金もなく、名物道具も持っていない人は三流茶人。そして三流茶人を侘茶人といった。まあ、名物一つも持っていないようじゃ、一端の茶人と名乗っちゃいけねえなあと言うことだ。

 戦国時代は、中世から近世の過渡期でまさに混沌とした時代でもあった。その上、まったく価値観が異なるキリスト教文化が入ってくる。東と西の文化の出会いは中世の終を後押しした。

 しかし、天皇を中心とするヒエラルキーは現代まで日本にとって絶対的なものだ。この過渡期はその中で身分的に虐げられていた人たちが、這い上がることが出来る最後のチャンスでもあった。

 身分が違うと、日常生活でも様々な制約があり差別された。中世の身分差別は根深い。経済的に裕福であっても、大名として国を支配していても、出自に関しての劣等感は常につきまとった。彼らの劣等感を拭い去るもの、そして人としての証として利用されたのが「名物」であったのだ。それは新興の武士達も町人たちにとっても、眼に見える、世間に喧伝出来る絶好のアイテムであった。将軍家と同じ宝物を持てる身分になった。被差別からの脱却が、茶の湯に執心した理由の一つとして理解できる。

 天皇家でさえ、その継承の証が求められる。それが三種の神器なら、人としての証が名物であった。武士の間では下克上といわれ、どこの馬の骨かわからないような人物までもが一国一城の主にもなれた。秀吉はまさに出世頭ということになる。

 江戸時代になると身分が確定する。秀吉のような出世はありえなくなる。信長でさえ、町人に残していた名物茶器をも家康の時代になるとほとんどが武家のものになった。

 しかし、証がなくなったかというとそうではない。徳川の治世では大名が家督を相続するさいに、将軍家から名刀や茶器が与えられるようになった。いわゆる拝領品だ。しかし、与えられた大名が亡くなると、それを将軍家に返さなくてはならない。一代限りのものであり、刀や茶器が正当な大名の継承者であるという身分証明書、免許証ともなったのだ。

 幕藩体制が確立すると人間関係と人間のあり方について目を開かせ、身分秩序を正当化するために、儒学、とくに朱子学が幕府の学問として思想として影響を与える。茶の湯もしかり。人々が名物を求めてはいけない時代になる。足ることを知る、侘び茶の精神がもてはやされる。「名器は一国一城に値す」逸話も、国を継承する証となった名器が理想化されたに過ぎないのかもしれない。


2014年8月13日水曜日

茶の湯で哲学する〜連歌〜

本日の茶の湯で哲学するテーマは「連歌」。

 和歌が茶の湯に取り入れられるようになったのは武野紹鴎以降のことと伝えれる。紹鷗は連歌の宗匠としても有名であり、三条西実隆に和歌を学び、茶道 を藤田宗里、十四屋宗悟、北向道陳等から修めていたが、実隆より藤原定家の 「詠歌大概の序」の講義を聞いて、茶道の極意を悟ったと云われる。

 茶の湯はその始まりから連歌師たちが大きく関わってきた。連歌は身分を問わす誰もが参加出来る中世を通じて行われてきた芸能である。まず「発句」といって五七五を詠む、そして次ぎに「脇句」といって七七で受け、それから五七五の「第三句」になり、これを繰り返して行われる。時には数時間、十数時間かかる場合もある。ただ闇雲に詠むのではなく、宗匠と執筆が中心となってルールにのっとて進められる。これを式目と云った。

 連歌の宗匠たちは歌の技芸だけで生活していたわけではなかった。彼らは諸国を自由に往来できることから、公家や幕府の上級武士、地方の大名や有力国人とも親交を持ち、情報収集、情報提供を行い、マスメディア的パフォーマンスもすれば、政治的なCIA的活躍をする。それに対する報奨も含まれていた。しかし、たんなる情報屋ではなかった。武田と今川の間に入って講話を結ばせるなど、その外交手腕もすぐれていたのだ。

 このように連歌師たちは当時の情報ビジネスの最先端を走り、その情報提供料を自分の創作活動にあてていたのだ。都に茶の湯の流行の兆しがあれば、彼らは自ら茶の湯を身につけ実践した。それは、室町幕府の弱体化を背景に将軍家の御物が市井に流れ庶民にも名物を手に入れることが出来るようになったことにある。名物の行方は後に政治さえも左右する。彼らは積極的に茶の湯に取り組んだ。それは初期の茶の湯のリーダーと伝えられる人たちはほとんどが連歌師たちであったことでもわかる。連歌師たちが茶の湯の流行を作ったのだ。その連歌の形式は後の茶の湯にも大きな影響を与えた。

 小堀遠州筆の連歌会の記録が残っている。参加者は小堀遠州、松花堂昭乗、淀屋个庵、佐川田昌俊、橘屋宗玄だ。大名、僧侶、家老、町衆とその身分もまちまちだ。

落葉して風乃色ミる山路哉  (遠州)
ひらけはさむき霜の松の戸  (松花堂)
有明は時雨し雲にもれ出て  (淀屋个庵) 
泊わかるる浪乃うら舟    (佐川田昌俊)
遠さかる春の海辺の天津雁  (橘屋宗玄) 
永日暮るすゑ乃真砂地    (遠州)
帰るさの道は霞に隔りて   (松花堂)
いつくの里にはこふ柴人   (淀屋个庵) 

まず連歌会の主賓である遠州がまず最初句を詠んだ。

 落葉して風乃色ミる山路哉(宗甫)=発句 冬

 連歌のルールでは発句はその場に近い風物から入り、「や」「かな」「けり」などの切れ字で結ぶ。遠州の発句は初冬の山路の景色を詠んだ。赤い紅葉だったかもしれない。黄色い葉かも、茶色にクスンだ色かもしれない。そこに風が吹き落葉の景色を変える。そしてそれを「山路かな」と結んだ。 

ひらけはさむき霜の松の戸(松花堂)=脇句 冬

 発句に添えて詠むのが脇句と云う。座を用意する亭主の役割だ。当然、諸芸に通じていた松花堂が担当である。脇句は当季、体言止めをルールとする。そこで体言止めに松の戸と詠んだ。松で出来た粗末な戸だ。この一言で山奥の、粗末な一軒家が想像出来る。そして“同季”でなければならないルールに則り、松の戸に霜が降りて白くなっている景色をイメージした。山奥の粗末な一軒家に冬の訪れを象徴する冬の客、霜を詠んだのだ。

落葉して風乃色ミる山路哉 ひらけはさむき霜の松の戸

有明は時雨し雲にもれ出て(淀屋个庵)=第三句 晩秋

 三句は転回をしなければならない。それがルールだ。前句には付けるが、そのもうひとつ前の句からは離れる。このもうひとつ前の句からの離れが「打越」と云う。どうするか。淀屋个庵は前句を受けつつ、「有明は時雨し雲にもれ出て」とやった。
 冬の訪れを告げる発句と脇句の意向を、ふたたび有明の月、夜が明けかけても、空に残っている月、晩秋に戻したのである。これを「季移り」という。さらに目線を地面から空へと向けさせた。

有明は時雨し雲にもれ出て ひらけはさむき霜の松の戸

泊わかるる浪乃うら舟(佐川田昌俊)=第四句 雑歌 

 ここで一巡である。たった三句の付合であるが、その技芸たるやものはすごい。次の第四句は「軽み」と「あしらい」を要求される。これもルールである。では、どのようにあしらうか。あしらうのにもかなりの技能がいる。この句だけ見ると「泊わかるる浪乃うら舟」季節ははっきりしない。異った季の句の間には無季(雑)の句を挟むのが普通。つまり次の人のための前ぶりをしているのである。また、佐川田昌俊は、前句を受けての、僅かに漏れる月の光の先に映っている「泊わかるる浪乃うら舟」を表現することにより、場所も山から海へその景色を移し、これから出航するであろう船着場に漂う浦船に光を当てた。

有明は時雨し雲にもれ出て 泊わかるる浪乃うら舟

遠さかる春の海辺の天津雁(橘屋宗玄)=第五句 春

 句目はそろそろ加速していくところになっていく。まず、季節が一気に春へと移る。そこでまず「出航しようとしていた浦船と春になって渡っていこうとする雁を掛けて海辺から遠ざかる。雁は秋に来て春に渡っていく二つの季節を表している。秋から一気に春にとんでいるのも、雁を表現することでその間の冬の季節を想像させる。

遠さかる春の海辺の天津雁 泊わかるる浪乃うら舟


永日暮るすゑ乃真砂地(遠州宗甫)=第六句 春

 永き日、日中が長く感じられる春の日ながを読んでる。海辺から離れた真砂地に座って、だんだん暮れてゆく中、前の句を受けて、夕暮れの空に消える雁の姿を見ながら、物思いに思いふけっているのだろう。この句で初めて人が出てくる。

遠さかる春の海辺の天津雁 永日暮るすゑ乃真砂地

帰るさの道は霞に隔りて(松花堂)=第七句 春

 ところがこのまま一緒に遠ざかってしまってはダメなのだ。そこで話が終わってしまう。自分の元に引き戻さないといけない。霞がかかって帰り道がわからない。ちょっと意地悪な句でもあるが、実はこの句は八句目に生きてくる。

帰るさの道は霞に隔りて 永日暮るすゑ乃真砂地

いつくの里にはこふ柴人(淀屋个庵)=第八句

そして霞の向こうには、「いつくの里にはこふ柴人」柴と云うのは山野にはえる小さい雑木、柴人というのは山里に住む芝を狩る人のこと。最後に見事に山里に戻して結んでみせた。

帰るさの道は霞に隔りて いつくの里にはこふ柴人

 このような連歌の自由自在の発想は、茶の湯の精神にも影響を与え、この連歌会の形式が茶の湯へとつながっていった。一座を共にする者たちがルールに則り座を作っていく。その本質は連歌も茶の湯も同じなのだ。