日本でキリスト教を広めたフロイスの『日本史』に茶の湯との出会いが書かれている。
上流の日本人は、彼らが大いに好意を示そうとする客があるときには、別れ際に、彼らの親しみを示すしるしとして、彼らがもっている宝を見せることが習慣になっています。それは皆必要な道具が揃った器で、彼らはそれから一定の、ひいて粉末にした葉を飲みますが、それは茶というもので、飲み慣れた者には味がよいばかりでなく、健康を増します。
さらに、茶室に通された感動を次のように記している。
室の片側には習わしどおりに一種の戸棚があり、そのすぐ傍に黒土で作った炉があり、周囲一ワラで珍しいものです。なぜかというと、それはまっ黒い粘土で出来ているのに、まるで澄み切った鏡のように光っているからです。その上に好い形をした鉄釜が、たいそうな見場の好い三脚にかかっていました。赤々と燃え炭火がその上に置いてある灰は磨り潰してよく篩った卵の殻からできているように見受けました。何から何まで皆清潔で、よく整っていて、言葉ではそれを説明することができなきくらいです。
ザビエル来日以来、彼らのキリスト教布教の一つの指針が、日本の文化、思想を尊重し、同化をはかることにあった。日本の古き伝統を破壊することなくキリスト教の戒律、習慣などをそれになるべく順応させようとしたのだ。
フロイスが眼を見張った漆で塗られた土風炉、端正に作られた灰。そして、清潔さ。清潔、清浄こそが茶の湯の原点でもあった。フロイスの鋭い茶の湯の観察眼は、日本人、日本文化に尊敬の念を抱いていたからに他ならない。
その結果が公家、大名、庶民に到るまで65万人という信徒数を数えるに至った。現在のカトリックの信徒数が45万であることを考えると、当時のキリスト教がいかに日本人の心を捉えたのかがわかる。
大名・武士たちがその原動力となった。「御大切」。キリスト教の愛を表す言葉だ。16世紀、宣教師たちはキリスト教を広めるために「たいせつ」という言葉を使った。見返りを求めない無償の愛は、武士道にも通ずるところがあったのだろう。あくまでも仕えることが使命の武士にとって、「御大切」と云う日本語は下剋上・戦乱の時代にあって彼らの心に響いたのかもしれない。
さて、キリシタン茶人の存在、茶道具や燈籠等に取り入れられた意匠、茶道とミサの所作の類似性から、茶道はキリスト教の影響を受けているという説がある。
しかし、キリスト教伝来の頃にはすでに茶の湯は流行の兆しを見せていた。「茶の湯は日本ではきわめて一般に行なわれ、不可欠のものであって、我等の修院においても欠かすことができないものである」と日本人の中に溶け込むためには、当時の交際儀礼としての茶の湯の重要性を認めた。そして、教会内に茶室が造ったのだ。とくにヴァリニャーノはその手引きまで与えていた。
キリストの教えを広める一助として、茶の湯を利用したのだ。そういう意味では茶の湯とキリスト教は関係があると云えるが、ミサの所作を点前に取り入れたという説等は、世界中の聖なる儀式の類似性を見れば当然のことであり、日本にも清めの儀式は神代の時代から存在するのだ。
利休の創意によって始められたと伝えられる濃茶の回し飲み。利休がミサにおけるカリスの所作に触発されて取り入れたとの説もある。”回し飲み”は酒を代表するように古来から日本人の慣習にあったものである。中世には一揆に参加する民衆たちが団結をはかるため起請文を灰にして神水に溶かし回し飲んだという”一味神水”と云う儀式もあらわれた。初期の頃に伝来した高麗茶碗が大ぶりなものが多いことからみても、一座建立を旨とする茶の湯に取り入れられるのは必然であったと思われる。
キリシタン茶人の存在が江戸時代以前の茶の湯の性格を知る一つの手がかりとなる。宣教師たちが激しく攻撃した既存の仏教、茶の湯の思想の根源が禅であったならば、布教のために茶会を利用しようとは思わなかっただろう。
高山右近は信仰のため大名の座も捨て去り、イエスに一生を捧げた。「喫茶に禅道を主とするは、紫野の一休禅師より事起れり」で始まる『禅茶録』。茶道が禅道を主とするならば、キリシタン茶人は最初から自己矛盾の中で生きていたわけだ。しかし、右近は大名を捨てても、キリスト教も茶道も捨てなかった。
茶禅一味という思想は茶道の根幹を成すものであるが、その思想が定着するのは実は江戸時代に入ってからである。小堀遠州が春屋禅師の書を好んで掛けたことから、沢庵禅師や江月禅師など大徳寺の僧侶の書を床の間を飾ることが流行する。『南方録』の「掛物ほど第一の道具はなし。客、亭主共に茶の湯三昧の一心得道の物也。墨蹟を第一とする」と云う考えは、現代の茶道にも大きな影響を与えた。
一方異文化同士はお互い刺激を与える。オスチヤを入れる聖餅箱に蒔絵を用いたり、調度品をはじめ彼らの好みのモノを職人に作らせることによって、南蛮の意匠、思想が取り入れられ、東西文化の融合の結晶として新たな工芸品が生まれた。それらが茶人たちに影響を与えたことは否定しない。
宗湛日記を読むと、高山右近の茶会の様子を垣間見ることが出来る。
二畳敷、床無。道籠に肩衝とせと茶碗と置双て、脇に柄杓立て懸け、つり棚には引切一つ、壁の方に。せと水指、めんつう、風炉なり。茶の後に、つり棚に肩衝を上て置、亭仰せられるには、遠国なれば、また会を仕るべく事難有候ほどに、上げて今ちと御目懸るべきと候なりと雑談なり
右近はこの頃、キリシタン禁教の中客分となっていた前田利家に従い名護屋に従軍していた。茶室は床無。掛物は掛けなかった。

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